ビル・ラムズデンとイノベーションの実践【前半/全2回】
文:クリストファー・コーツ
近年、イノベーションという言葉がもてはやされている。原酒に音楽を聴かせてウイスキーを熟成したり、マリッジを重ねる「ダブルダブル熟成」を発明したり、特定の畑で穫れる大麦だけにこだわったり、スコットランド産のライ麦からスピリッツをつくったり、驚くべき手法でウイスキーにフレーバーを加えたり、とにかく何とかしてライバルより目新しい試みを示そうと先を争うメーカー同士の競争が激しくなった。
このような限界を押し上げようという意欲の高まりは、もちろんウイスキー業界だけに限ったことではない。イノベーションはあらゆる場所で感じられ、実際に世界を少しずつ変えている。だがムーアの法則が予測したとおり、2年ごとにパワーが倍増していくのはエレクトロニクスの世界だけだ。熟成に長い年月のかかるウイスキーは、電気製品のように次々と新しい技術を盛り込んだ商品をリリースする訳にいかない。ウイスキーづくりのイノベーションは、一朝一夕では起こらないのだ。
形にとらわれない自由な発想は、あらゆる奇妙な実験や夢のような理想へとウイスキーメーカーを駆り立てることもできる。だが業界内の規制と「樽内で過ごす時間」という絶対的な条件が立ちはだかり、短期間でまったく新しい味わいのウイスキーを発売させることが困難(あるいは単純に不可能)になる。特定のスタイルから大きく逸脱した個性を発揮することもできない。
志の高いウイスキーメーカーたち(大抵は新興企業のオーナーや従業員)から、特にスコッチウイスキーの規制に関する不満の声が挙がっている。高品質を守るために定められたウイスキーの定義が、成功への道標ではなく足かせになっているというのだ。規制があるせいで小規模なメーカーの革新的なチャレンジが阻害され、結果的に大企業だけを利するものになっている。このような批判を口にする人々は、アメリカやヨーロッパ本土などのクラフトウイスキーブームを念頭に置いており、規制緩和こそが本当に実験的なスピリッツを生み出せる土壌になると考えている。
スタートアップで苦労している小規模メーカーが、このような理想論に惹かれるのは無理もない。だがイノベーションを加速するための規制緩和論は、本当に筋の通った主張なのだろうか。私はある識者に意見を訊いてみたいと思った。訪ねたのはエディンバラにあるグレンモーレンジィ・カンパニーのオフィス。ここではイノベーションについて語るべき言葉を持っているに違いない人物が働いている。
失敗の歴史は語られない
「誰かが思いつきそうなことは、ディスティラーズ・カンパニー社(DCL)がもう実験済みですよ。まだ試していないのは、本当に馬鹿げたクレージーなアイデアだけ。まあそんなクレージーなアイデアを僕も温めていたりするんですけど。とにかくDCLはあらゆる実験をやらせてくれました」
グレンモーレンジィ・カンパニーの最高蒸溜製造責任者を務めるビル・ラムズデン博士はそう語りだした。
ビル・ラムズデンは、キャリアの前半をディアジオの前身であるDCLで過ごした。リサーチサイエンティスト(科学研究員)として出発し、品質保証やモルティングへの深い知見を活かしながら蒸溜所長になった。そんな経験豊富なビルの言葉には説得力がある。いたずらっぽく笑いながら、ビルは言葉を続ける。
「名前は言えないけど、ある蒸溜所が数年前にメディアで話していました。まだ誰も試したことのないイノベーションにあれこれ挑戦中だって。記事を読んで笑っちゃいました。その挑戦は全部僕らがもう試していたことだったから。自分じゃないにしろ、業界の誰かがもうやったことばかり。僕はスコッチウイスキー業界で働いていることを誇りに思っているけど、猫も杓子もイノベーションばかりを言い立てる風潮にはちょっと辟易している部分もありますね」
だからといって、本当にオリジナルなアイデアや実験がおこなわれていない訳ではないけどね。ビルはすぐにそう付け加えた。
「たくさんの新しい動きがあるのは知ってます。でも結果を公開しないほうがよさそうな実験もかなりあるんです。単に他との差別化を図ろうとして、誰かが思いついた愚かな実験作を味わってみたこともありますよ。大体そんなものが、結局のところ美味しいウイスキーに仕上がると思いますか?」
サンプルが満載された棚を指差しながらビルは続ける。
「この食器棚には、たくさんの失敗例が残されています。実験の結果、ひどい味わいで終わったサンプルです。ブレンドに混ぜて商品化されることなんて決してありません。これは簡単な道理です。樽1〜2本で無駄だとわかる実験なのに、何百本もの樽に何万ポンドも投資するようなことはできませんよ」
(つづく)