その華やかな人生で、ただひとつのウイスキーを愛し続けたフランク・シナトラ。文化的アイコンとしてのジャックダニエルについて考える2回シリーズ。

文:クリス・ミドルトン

 

1998年7月20日、カリフォルニアの夏らしく晴れ渡ったロサンゼルス。ビバリーヒルズのグッドシェパード教会でおこなわれたフランク・シナトラの葬儀には、家族やハリウッドの友人たちが参列していた。

お気に入りのブレザーには「JD」のエンブレム。フランク・シナトラはジャックダニエルの会員であることを誇りにしていた(メイン写真も同じ)。

ブルーのスーツを纏ったシナトラのポケットに、妹のナンシーが「ジャックダニエル」のミニボトルをそっと入れる。このウイスキー1瓶、煙草の「キャメル」1箱、ジッポのライター、10セント硬貨のコインロールだけを持って、不世出の大歌手は天国へと旅立った。

ウイスキーとアーティストの関係を語るとき、真っ先に思い出すのが、このフランク・シナトラとジャックダニエルのエピソードである。

シナトラがジャックダニエルの宣伝に担がれたり、広告料をもらったりしたことは一度もない。そのような打診があったら、きっとシナトラは自尊心からジャックダニエルを飲まなくなってしまったことだろう。幸いにしてそんなことは起こらず、シナトラはユニークなジャックダニエルのフレーバーを約50年にわたって愛し続けた。

「みなさん、これはジャックダニエルです。神々が宿った甘い美酒なんです」

シナトラはたびたびステージ上でそんな話をしながら、オンザロックのグラスにウイスキーを注いでみせたものだ。

ローリングストーンズ誌に「20世紀最高の流行歌手」と認められた大スターが、いったいどんな経緯で、当時はあまり知られていなかった地味なテネシーウイスキーブランドを好きになったのだろうか。その背後の関係を探ってみたい。
 

ニューヨークでの運命的な出会い

 
フランク・シナトラがジャックダニエルと出会った場所は、飲み仲間であるハンフリー・ボガートやジャッキー・グリーソンたちとよく杯を交わしていたレストラン「トゥーツ・ショアーズ」であったという。トゥーツ・ショアーズはニューヨークのウェスト51ストリートにある有名なサロン付きレストランで、セレブたちがよく集まってパーティーを開いていた。シナトラは、1940年代初頭に同店がオープンして以来の常連客だったという。

「シナトラ一家」と呼ばれる悪友たちと戯れる夜。華やかな社交の席には、いつもジャックダニエルのボトルがあった。

毎晩のように出入りしていたスポーツ選手やハリウッド俳優は、ハンフリー・ボガート、ビング・クロスビー、チャーリー・チャップリン、ジャッキー・グリーソン、ジョー・ディマジオといった錚々たる顔ぶれである。そのなかでも傑出した人物といえば、シナトラの友人でもあった大人気コメディアンのジャッキー・グリーソンで、酒神ディオニュソスの如き豪快な飲みっぷりがよく知られていた。

トゥーツ・ショアーズが、テネシーウイスキーのジャックダニエルを取り扱い始めたのは1949年の頃だ。店の誰かに勧められて味わったシナトラは、その後、生涯にわたってこのウイスキーと付き合うことになるのである。

当時のジャックダニエルは、まだまだ弱小のブランドだった。蒸溜酒の製造を禁止していたテネシー州ムーア郡が1938年10月から再びウイスキー製造を許可し、ジャックダニエル蒸溜所は保有していたストック原酒から1946年12月に6年熟成の「ジャックダニエル ブラックレベル」を発売したばかり。ジャックダニエル蒸溜所は、何の因果かテネシー州南部のドライ・カウンティー(禁酒郡)でウイスキーをつくっていたのだ。

原酒のストックはまだ少なく、「ジャックダニエル ブラックレベル」の売り上げは1948年に9,000ケースを下回っている。そこでジャックダニエルは、南部の主要都市やニューヨーク都市圏の高級店にターゲットを絞ったところだった。1950年の暮れでも、「ジャックダニエル ブラックレベル」の年間売り上げは20,000ケースに満たなかった。全米のウイスキー販売量が5700万ケースだったことを考えると、まだ極めて小規模なブランドであったことがわかるだろう。

しかしジャックダニエルは、アメリカ文化の担い手やオピニオンリーダーを中心に認知度を広げていく。ジョン・ヒューストン、オーソン・ウェルズら反骨心旺盛な映画監督や俳優にも注目され、また美食家で知られた作家のルーシャス・ビーブなどもジャックダニエルのファンになった。

ユニークな製法でつくられた「スムーズでメロウ」なウイスキーとして、また決して急がず贅沢につくられたウイスキーとして、ジャックダニエルはアメリカで影響力のあるトレンドセッターたちのカルト的な人気を獲得していった。
 

「シナトラ一家」御用達のウイスキー

 

その後、スキャンダルやレコード会社とのトラブルに見舞われ、声帯を痛めるなどの停滞期を乗り越えたシナトラだが、1954年からは華々しくステージに帰ってくる。アカデミー助演男優賞を受賞し、新しい映画やレコードを製作しながら、ラスベガスの目抜き通りで連日のショーを開催した。シナトラのショーではステージにジャックダニエルが用意され、仲間たちに囲まれたシナトラは時折グラスに手を伸ばしながら毎夜遅くまで歌い続けた。

ジャックダニエルのセールスを担当するアンジェロ・ルッケージ(右)とフランク・シナトラ。生産量が追いつかない時代でも、シナトラのショーには必ずボトルが届いた。

1950年代にはロサンゼルスに住み、ハンフリー・ボガートらのハリウッドスターたちと出歩いて「ホーンビー・ヒルズ・ギャング」と呼ばれる交流グループが生まれた。毎晩のように飲み歩く男たちを見て呆れ果て、ボガート夫人だったローレン・バコールが「あんたたち、忌々しいネズミの群れみたい」と罵った。これがハリウッドの悪友集団として知られる「シナトラ一家」(Rat Pack)の由来である。

当時の飲み仲間には、エロール・フリン、エリザベス・テイラー、マリリン・モンロー、ジュディ・ガーランド、スペンサー・トレイシー、ナット・キング・コール、シャーリー・マクレーンらがいて、彼らが集まる場所ではジャックダニエルのウイスキーも必需品だった。シナトラがカリフォルニア州パームスプリングスの自宅に帰ってくると、前庭にジャックダニエルの旗が掲揚されるので、それを目印にして近所の俳優仲間たちがカクテルを楽しみに集まってきたという。

1960年にはラスベガスで急成長中だったエンターテイナー、ディーン・マーティンやサミー・デイヴィス・ジュニアを加えた「シナトラ一家」総出演の映画『オーシャンと十一人の仲間』が公開。シナトラの仲間たちが行く先々には、必ずジャックダニエルがあった。

1961年にシナトラはマーティン社製の双発プロペラ機を自家用機として10万ドルで購入し、さらに30m万ドルを追加して機内にバーとピアノを取り付けた。シナトラはこの自家用機を「エル・ダーゴ」と名付け、「エル・ダーゴ」のラベルを貼り付けたジャックダニエルのミニボトルを常備した。
(つづく)