スカイ島とタリスカーの今【前半/全2回】
文:ガヴィン・スミス
スカイ島は、エディンバラに次ぐスコットランド第2位の観光地だ。フェアリー・プールズ、キルト・ロック、オールド・マン・オブ・ストール、ニースト・ポイント。インスタ映えする場所には事欠かず、そのドラマチックな絶景を楽しもうと毎年約65万人もの観光客が島を訪れる。
スモーキーな香味で世界的に知られるタリスカー蒸溜所は、スカイ島の北西部に広がるハーポート湖畔にある。険峻なキュイリン山の陰にあたる場所だ。
タリスカー蒸溜所も、近年は年間約75,000人という大勢の訪問者を迎えている。観光シーズンの最盛期には、毎日約700人が訪れるという人気のデスティネーションだ。島の中でも比較的小さなカーボスト村にあるため、これほど大勢の来客を迎えるのはチャレンジでもある。
受け入れ側への圧迫を緩和するため、蒸溜所のオーナーであるディアジオ社はビジター体験の再構築に多額の資金を投じてきた。現在では、たとえ年間75,000人のビジターが倍になっても対応できるようになっている。
タリスカーは、ディアジオ傘下の蒸溜所で最も多くの訪問者を迎え入れる。人気の理由を挙げてみると、もとよりスカイ島が観光客に大人気の島であること。蒸溜所自体が、とても風光明媚な立地であること。そしてタリスカー蒸溜所で生産されるフルボディのシングルモルト(フルーツ、塩、胡椒、ピートなどのユニークな香味の融合)が、長期にわたってカルト的な人気を誇ってきたことにある。
タリスカーは近年も着実に売上を伸ばしており、現在の販売数は年間で約320万本にも及ぶ。シングルモルトスコッチウイスキーの中では、第8位というポジションだ。
タリスカー蒸溜所は、最近もビジターセンターを以前の倉庫に移転したばかりだ。近年の大きな変革について、ブランドホームのガイド長を務めるルイーズ・エリスが次のように語ってくれた。
「現在ではバーとテイスティングルームが2箇所ずつあり、さらに蒸溜所ツアーに参加しないビジターのための導線も用意しています。そだから大勢の来客がある時でも、まるで混雑していないように感じられるでしょう。ビジターのほとんどは個人旅行者で、北米からの旅行者も増えてきました。ただウイスキーやカクテルを味わいにくるだけの人もいて、そんな人たちにとってはウイスキーの風味こそがタリスカー体験なのです」
ビジターセンターはブルーとクリーム色に装飾され、売り場には船の形をした壁面ディスプレイユニットが設置されている。
タリスカー蒸溜所の新しい場所といえば、ハーポート湖を見下ろす場所に新設された60席のワイルド・スピリッツ・カフェだ。ここでは軽食が食べられるほか、ディアジオ傘下のウイスキー各種やタリスカー・ベースのカクテルも提供している。マーマレード風味の「マーライオン・マティーニ」が特におすすめだ。
以前は電波の届きにくい場所だったが、現在のタリスカー蒸溜所ではインターネット環境が整備されている。これはスカイ島を訪れる今どきの旅行者にとってもありがたい。インスタ映えの対策も十分に整っている。そもそもディアジオが一般公開している蒸溜所は、どこも写真撮影を積極的に奨励するポリシーでビジター体験の共有を促している。
激動の歴史を辿ったウイスキーブランド
ディアジオが刷新したビジター体験の理念は、ウイスキーの風味に最大の焦点を当てること。マニアックな事実や数字に関する説明は、以前よりも控えめである。
それでも1830年にヒュー・マカスキルとケネス・マカスキルの兄弟が設立した蒸溜所の歴史はとてもおもしろい。エイグ島で生まれ育った兄弟は、1825年に邸宅「タリスカーハウス」とスカイ島の広大な土地を購入。羊の放牧のために地主が地元住民を退去させる典型的な「ハイランドクリアランス」のやり方で、小作農たちの耕作地を収益性の高い牧場に変えていった。
そんなマカスキル家が始めた蒸溜所事業は、やがて失敗に終わる。ノース・オブ・スコットランド銀行が1848年に蒸溜所のリース契約を引き継ぎ、その後アンダーソン商会をはじめとする数人のオーナーに経営権が移った。
ここからの逸話は、最近のウイスキー投資詐欺にも通じるものもある。アンダーソン商会のジョン・アンダーソン代表は、1880年に詐欺罪で投獄された。タリスカーの貯蔵庫で熟成していると顧客に偽り、実在しないウイスキーを販売したという罪状である。
同じ年に、蒸溜所はアレクサンダー・グリゴール・アランとロデリック・ケンプの手に渡る。ここからタリスカー蒸溜所の運命は大きく好転した。
この頃になると、タリスカーは地元スカイ島以外にも名声を広げていた。小説『宝島』や『誘拐されて』で知られる作家のロバート・ルイス・スティーブンソンは、アンダーソンが投獄された同じ年に次のような記述を残している。
「あらゆるお酒の最高峰。私が思うに、それはタリスカー、アイラ、グレンリベットだ」
そして1894年にはタリスカー蒸溜所株式会社が設立され、その4年後にタリスカーはダルユーイン・グレンリベット・ディスティラーズやインペリアル・ディスティラーズと合併してダルユーイン・タリスカー社となった。この会社は1916年に大手ブレンダーのコンソーシアムによって買収され、タリスカーは1925年にディスティラーズ・カンパニー・リミテッド(DCL)の傘下に入った。
運命のいたずらがなければ、タリスカーはおそらく現代まで存続できなかっただろう。タリスカー蒸溜所は1960年に大火災に見舞われ、蒸溜棟の全面的な再建が必要となった。しかしこの災難が、かえってタリスカーの長期的な未来を切り開いたと考えることもできる。
1980年代になってウイスキー業界が低迷すると、DCLは大掛かりな蒸溜所の合理化計画を推進する。安定的にウイスキーを生産していた傘下の蒸溜所が次々と閉鎖される中で、火事からの再建によって比較的新しい設備を備えていたタリスカーはなんとか廃業を免れて生き残った。この時期に消え去った蒸溜所の数を考えると、タリスカーの存続はほとんど奇跡的でもある。
タリスカー蒸溜所では、1972年にスチルを蒸気加熱式に変更し、フロアモルティングが廃止された。そして1988年になると親会社の新しいラインナップ「クラシックモルト」で重要な一角を担い、10年熟成のタリスカーを主役に据えるのである。
(つづく)