世界中の注目を集めながら、衝撃的な破産に至ったウォーターフォード蒸溜所。現場を指揮したニール・コンウェイが、初めて顛末を明かす2回シリーズ。

文:マーク・ジェニングス

 

アイルランドのウォーターフォード蒸溜所は、2024年末から操業を止めて破産管財人の管理下に入っている。このニュースは世界のウイスキー業界に衝撃を与えた。なぜならウォーターフォード蒸溜所は、アイリッシュウイスキーだけでなくウイスキー製造の考え方を根本的に変える象徴的な存在だったからだ。世界のウイスキー関係者が注目するプロジェクトを推進していただけに、多くの業界関係者が自らの事業に照らし合わせて損失の大きさを実感した。

そして今ここに、渦中の当事者がいる。ウォーターフォードの醸造責任者と生産部長を務めたニール・コンウェイだ。輝かしい期待を背負ってプロジェクトを始動させ、蒸溜所の開業後も果てしない野心を貫いてきた。すべてが消えゆく現実を目の当たりにして、どれだけの絶望を味わったのだろうか。ニールがメディア相手にウォーターフォードの破産を語るのは初めてのことだ。

「目標は実現できたはずだし、実現すべきでした。単にウイスキーをつくるだけではなく、私たちは新しいアプローチを証明しようとしていました」

ニール・コンウェイは静かに話し始める。ウイスキー業界でも、典型的なブランドの顔役とは印象が異なる。飾らない言葉で、いつも誠実に語ってくれる人だ。

テロワールの重視というコンセプトを掲げて、新しいウイスキーの価値を開拓したウォーターフォード蒸溜所。世界中の関係者が、その動向に注目する存在だった。

キルケニー育ちのニールは、ウォーターフォード醸造所でビール醸造のキャリアをスタートさせた。ディアジオの広大なネットワークでさまざまな役割を経験し、ギネスの本拠地セント・ジェームズ・ゲート醸造所で数百万ユーロ規模の設備投資プロジェクトに携わった。

そして運命の2014年に、ワイン商のマーク・レイニエが廃業したウォーターフォード醸造所を買収した。この場所から、新しいウイスキー製造に乗り出すためだ。当時のニール・コンウェイは、もう乳製品業界に籍を移していた。酒類業界に戻るつもりはなかったが、一本の電話によって運命を変えられたのだという。

「面接という感じではありませんでした。マークはただ自分の構想を話してくれたんです。これから15年先や20年先を見据えたビジョンを鮮やかに描き出してくれました。産地のアイデンティティや大麦品種にこだわり、まったく前例のない方法で新しいウイスキーづくりを実現するという大胆な構想でした」

だがマークとの面会を終えたニールは、「さっきの話は何だったのだろう」と戸惑いながら帰路についた。

「その場では、具体的な仕事の話すらしませんでした。でも30分後に電話がかかってきて、『やってくれますか?』と聞かれました」

ニールはその仕事を引き受けた。そして8年間にわたって、現代のウイスキー界を代表する野心的な蒸溜所プロジェクトに全身全霊を注ぐことになったのだ。

ウォーターフォードの顛末を理解するには、まずマーク・レイニエの核心的な主張について抑えておく必要がある。それはウイスキーにおけるテロワールの重視だ。テロワールはワインでおなじみの概念だが、ウイスキーにおいても同様に重視するのがウォーターフォード創業の根本理念である。

マークには、アイラ島のブルックラディ蒸溜所を復活させた功績もある。原産地とのつながりや透明性を強く押し出し、世界中に支持者を広げた。同じ成功をアイルランドの地でもたらすのが、ウォーターフォード蒸溜所の目標となる。

だがウォーターフォードの提案は、ブルックラディよりもさらに過激だった。それは原料である大麦をすべての中心に置くこと。原料となる穀物以外のあらゆる変数を制御すれば、大麦の品質と産地由来の風味がウイスキーの香味を規定できる。そのような理想を実現するため、ニールはさまざまな準備を進めたのだという。

「私の役割は、マークの理念に基づいたシステムを構築すること。製麦を担当するミンチ・モルト社、大麦を栽培する農家、物流チームとしっかり連携しました。有機農法やバイオダイナミック農法で育てた単一農場の大麦を使用したり、ハンター種のような古い伝統品種を導入したり。毎日のように新しいテーマが設定され、バッチごとにユニークなチャレンジを積み重ねられるシステムの構築です」
 

革命的なコンセプトで始動

 
こうして生まれた蒸溜所は、単なるウイスキー工場をはるかに超えた存在で、無数のデータを生み出す実験室でもあった。スプレッドシートや実験報告書に、詳細なデータが記録される。完全なトレーサビリティとテイスティングプロファイルを備えたウイスキーが、何十種類もリリースされた。最盛期のウォーターフォードは、アイルランドにある100軒以上の農場から原料を調達し、農場ごとにバッチを分けてスピリッツを製造していた。

「香味の追求だけが目的ではありません。私たちの意図の正しさを証明する必要もありました。大麦の個性を細部まで表現するのが目的です。繊細な大麦の声を届けるため、スピリッツは可能な限りクリーンに仕上げなければなりません。それがウォーターフォードの哲学でした」

だがウォーターフォード蒸溜所の立ち上げは、近年のウイスキー史を振り返ってみても特に困難な時期に重なってしまった。まずは新型コロナウイルスの流行だ。コロナ禍でサプライチェーンは混乱し、テイスティングの計画もままならず、計画されていたイベントが中止に追い込まれた。

「ちょうどボトリングを始めた時期に、新型コロナウイルスの感染が拡大しました。発表イベントやバーでのお披露目会、空港免税店での展示会など、数多くの計画がすべて白紙に戻されて、販売計画が丸ごとオンラインに移行したんです」

ウォーターフォードのウイスキーは、何よりも大麦の出自を大切にする。原料のトレーサビリティも完璧な「ファーム・トゥ・ボトル」を実現していた。

それでもなお、ウォーターフォードには確かな勢いがあった。ウイスキーファンからの賛同や好奇心が、追い風となって苦境に立ち向かう原動力になったのだという。

「ロックダウン中でも、ウォーターフォードを話題にしてくれるファンがいました。流通業者からの熱気も感じていました。蒸溜所の内部も同様です。ここには素晴らしい製造施設と明確な理念がある。だから最後までやり遂げるのに十分なサポートが得られるはずだと感じていたんです」

世界のウイスキー業界が、ウォーターフォード蒸溜所の動向に注目していた。ニールも、そんな期待にあらゆる方法で応えようとした。

ウォーターフォードの初期リリースは、単一の農場で栽培された大麦の香味を表現するシングルファームのシングルモルトが続いた。まずはウイスキーの風味は、生産地の風土によって形作られるというコンセプトを示す意図があった。シングルファーム製品を味わったウイスキー愛好家たちは、次に量産可能な「ウォーターフォード キュヴェ」へと進む。それがブランドの狙いだった。「ウォーターフォード キュヴェ」は、さまざまなタイプのモルト原酒をブレンドしてアイルランドのテロワールを重層的に表現した製品だ。

しかしシングルファームのシリーズは、あまりに短期間で数を増やしすぎた。ニール・コンウェイいわく、原因のひとつは各国市場が限定ボトルを欲しがったからだ。ベルギー限定ボトル、台湾限定ボトル、米国限定ボトルをそれぞれ別途に用意する。そのバリエーションは数十種類に及び、それぞれが独自の名称、農場原産地、QRコードによるトレーサビリティを備えていた。

「商品数が多すぎて、手に負えなくなったんです。熱心なファンでさえ『ニール、この路線にはもうついていけないよ。棚のスペースが足りない』と言い出しました」

内部からも抗議の声が上がったが、新商品は次々とリリースされた。ウォーターフォードの魅力でもある複雑さの追求が、行き過ぎて事業拡大の障壁となっていった。

「ウイスキーの背景がボトルごとに異なるため、試飲会での説明に毎回30分もかかりました。これが定員制のマスタークラスなら問題ないのですが、ウイスキー見本市のようなイベントでは仇になります。テイスティングのカウンターには長蛇の列ができ、長い説明を待ち切れない人たちが立ち去るようになりました」
(つづく)