オーストラリアのバーボンブーム【前半/全2回】
かつてスコッチがシェア90%を誇っていたオーストラリアのウイスキー市場で、バーボンが堂々首位の座を奪い取っている。長い歴史を振り返りながら、南半球におけるバーボンブームのルーツを探る2回シリーズ。
文:クリス・ミドルトン
これはアメリカで生まれたコーン原料のウイスキーが、英国に忠実だったオーストラリアのウイスキー市場を席巻するまでの物語である。
現在のオーストラリアでは、バーボンがウイスキー市場全体の60%を占める。人口あたりで換算すると、オーストラリア人はアメリカ人の2.5倍以上もバーボンを飲んでいることになる。この爆発的なバーボン人気のルーツを探ると1軒のバーにたどり着く。場所は猥雑な賑わいを見せるシドニーきっての繁華街、キングスクロスだ。
キングスクロスに「ザ・バーボン&ビーフステーキ」が開店したのは1967年9月のこと。店のオーナーを務めていたのは、米軍高官で元CIA諜報員でもあったマイケル・ハンド氏とパートナーのバーニー・ホートン氏だ。2人のアメリカ人は、ベトナム戦争の大規模な保養休憩地となったシドニーで、アメリカンスタイルのバーとレストランを開店するチャンスに恵まれたのである。
当時のキングスクロスでは、30万人以上の若いGIたちが足を運んで戦争の疲れを癒やしたといわれている。ここは24時間休みなく兵士やシドニーの住民たちが訪れる歓楽街であり、「ザ・バーボン&ビーフステーキ」が提供していたのもバーボン、ビール、ステーキだけではない。隣の店でのセクシーショーはもちろん、それ以上のサービスも販売していたはずである。キングスクロスは、悪徳のナイトライフで栄えた街なのだ。
ハンド氏とホートン氏は派手な交流関係でも知られるようになり、1980年にはオーストラリアから退散を余儀なくされた。麻薬の密売、経営していた投資銀行の倒産、殺人罪での告発などが彼らを追い立てたのである。それでも「ザ・バーボン&ビーフステーキ」は、犯罪捜査、戦争、怪しげな人間関係などを乗り越えて経営を続けてきた。現在のキングスクロスも以前よりも健全な街になった。店も最近改装がおこなわれて「ザ・バーボン」に名称を変え、酒場としての人気は今なお健在である。
バーボン成立までの長い歴史
ケンタッキー州とテネシー州で、初期バーボンのプロトタイプといえる蒸溜酒が生まれたのは19世紀前半のこと。20世紀前半までには最初の製品規格基準が定められた。1906年の食品医薬品清潔法施行と、1909年のタフト判決によって、ストレートバーボンウイスキーの定義が成文化されたのである。ちなみに、1869年にウイスキーの定義に関する初めての裁判を起こしたのは日本人だった。当時のシンシナティ裁判所のタフト裁判長は、タフト大統領の父にあたる人。原告の日本側は、輸出されてくるウイスキーは添加物が入ったニュートラルスピリッツであり、ピュアウイスキーやストレートウイスキーとはいえないと主張した。タフト裁判長は、訴えの内容を認めて日本側に好意的な判決を出している。
アメリカで初めて「バーボンウイスキー」の名称が使われたのは、1821年にまで遡る。それはケンタッキー州メイズビルのウェスタンシチズン紙に掲載された広告だった。南北戦争以前は、アメリカ東海岸の酒好きがオハイオバレー一帯でつくられるウイスキーを「ウェスタンウイスキー」や「ケンタッキーウイスキー」と呼び習わしていた。それが1840年代までに、ジョン・アンバリーとジェームズ・クロウの両博士がバーボン生産の基準と工程を系統立てて確立したのである。マッシュビル、チャー、オークの新樽などの技術もこの時点で標準化されている。
初めてボトリングされたバーボンは、ニューヨークで1849年に販売されたAMベニンガー社の「オールドバーボン」だ。当時の「オールド」という言葉は、木樽で2〜3年間貯蔵したり、そのような熟成済みのウイスキーに似せて色や風味を加えたりしたウイスキーのことを指していた。南北戦争以後は、バーボンがライウイスキーに代わってアメリカでもっとも人気のあるストレートウイスキーとなり、以降ずっとアメリカでもっとも生産量の多いストレートウイスキーのスタイルになった。現在までにライウイスキーがバーボンの生産量を上回ったのは1896年と1902年だけである。それを除けば、バーボンのライバルは大量の添加物で色や風味を加工した一般のブレンデッドウイスキーだった。20世紀初頭までは、このような低品質のウイスキーが横行していたのである。
禁酒法が施行されるまで、アメリカはウイスキーの生産で世界をリードしていた。だが禁酒法の終焉を経て、ストレートバーボンが再び売り上げを向上させることができたのは1950年代になってからである。1946年にはウイスキー総売上のわずか13%に過ぎなかったバーボンだが、アメリカ産ブレンデッドウイスキーの牙城を徐々に崩し始め、1958年までに47%のシェアを獲得するに至る。最高潮に達したのは1970年、国内のバーボン売り上げが3,600万ケースに達したときだ。これは現在を40%も上回る数字である。1970年までに、バーボンは5万ケースを主要な外国市場である日本、ドイツ、オーストラリアに輸出されていた。バーボンを現地に輸入して、地域のコミュニティに順応させる媒介役を果たしていたのは、各国に駐留する軍人たちであった。
(つづく)