かつて北米のウイスキーづくりを担った主力ライ麦品種の「ローゼン」。20世紀後半に衰退しかけた品種が、奇跡の復活を遂げるまでのストーリー。

文:マギー・キンバール

今から百年以上前の1909年。ミシガン農業大学のフランク・スプラッグ博士は、ロシアから送られてきた血統書付きのライ麦をサンプルで受け取った。差出人は、かつての教え子であるジョセフ・ローゼンの父親。このライ麦を研究室で栽培したスプラッグ博士は、1912年までに商業栽培が開始できる量の種を確保した。

スプラッグ博士は、この品種に教え子への感謝をこめて「ローゼン」の名を与えた。そしてローゼン種は、瞬く間にミシガン州の農業界が誇る主力の作物として成長。ミシガン州のライ麦生産量は、1920年に全米のトップへと躍り出た。何百ブッシェルものローゼン種が、他州の生産者にも栽培用として販売された。

ストール&ウォルフ蒸溜所の創業者でもあるディック・ストール(右)とエリック・ウォルフ(左)。ミクターズのマスターディスティラーだったディックは、ウイスキーづくりに理想的なローゼン種のライ麦を探していた(メイン写真もディックとエリック)。

やがてローゼン種は、シーグラム社が1942年に刊行した『穀物マニュアル』で「ウイスキー製造に優れた品種」というお墨付きを得る。だがそんな成功も永遠ではなく、1970年にはローゼン種のライ麦を栽培する者はいなくなっていた。かつて高い人気を誇ったローゼン種は、米国農務省(USDA)の種子バンクに残されるのみとなったのである。

歴史の遺物としての運命がほぼ確定したかに見えたローゼン種だったが、意外な場所から復活の兆しが現れる。それが非営利団体のデラウェア・バレー・フィールズ財団だ。創設者であるローラ・フィールズは、商品市場向けに栽培された穀物から農家が利益を得られるように支援している。

今から7年前の2015年、ローラ・フィールズはペンシルベニア州の蒸溜酒製造業者、農家、製粉業者を訪ね始める。さまざまな人達の声を聞きながら、ローゼン種のライ麦に目を付けたのだという。

「2015年から2016年にかけて、ずっとペンシルベニア州を旅していました。州内の人たちのために、さまざまな可能性を探していたんです。そんな中で、いちばん初期に会った相手がディック・ストールとエリック・ウォルフでした」
 

ある蒸溜所から始まったローゼン種の探索

 
ストール&ウォルフ蒸溜所の創業者でもあるディック・ストールとエリック・ウォルフは、当時クラフトバーボンの『ボンバーガーズ』を発売していた。フィールズは2人との会話を振り返る。

「ディックに、ペンシルベニアでライウイスキーづくりを再興するにはどうしたらいいのだろうかと相談されたんです。彼らはバーボンのカテゴリーで『ボンバーガーズ』をリリースしていました。よく話を聞くと、ディックはミクターズでマスターディスティラーを務めていたときに使っていたローゼン種のライ麦を手に入れたがっていたんです」

デラウェア・バレー・フィールズ財団の創設者であるローラ・フィールズ。農業の収益化を目指す過程で、失われかけていたローゼン品種の探索に乗り出した。

ペンシルベニア州シェーファーズタウンのミクターズ蒸溜所は、1990年に閉鎖されてから四半世紀の時が経っていた。ディック・ストールはミクターズ蒸溜所で最後のマスターディスティラーであり、ミクターズでは1970年までローゼン種のライ麦を原料に使用していたのだ。

ストール&ウォルフの共同創業者、エリック・ウォルフも当時を振り返る。

「ディック自身もローゼン種を使っていました。でもミクターズのマスターディスティラーだった頃から、原料の調達には関わったことがありませんでした。だからローゼン種を今でも栽培している農家がどこにいるのか見当もつかなかったのです」

ローゼン種のライ麦を手に入れたい。ディック・ストールは、ローラ・フィールズに漠然とした希望を伝えた。だがローラ・フィールズは、その要望を真剣に受け止めていた。エリック・ウォルフもその結末に驚いている。

「実際にローゼン種を入手して、ウイスキーを蒸溜できるようになるなんてまったく予想外の展開でした。ディック・ストールが理想とするローゼン種のライウイスキーを復活できたのは間違いなく素晴らしいことで、私たちが新しい歴史の一部になれたことを光栄に思います。ローゼン種のライ麦は、本当に特別な穀物ですから」

だがローゼン種の復活物語には、さらに続きがあった。それがペンシルベニア州での栽培なのだとエリック・ウォルフは語る。

「ローゼン種のライウイスキーをつくり始めたときは、まだそんな可能性さえ考えたことはありませんでした。1740年から続く我が家の農場で、地元産のローゼン種を栽培できるなんて夢のようです」
(つづく)