アメリカンウイスキーの黎明期【前半/全2回】
文:ハリー・ブレナン
ウイスキーには、世界中で親しまれるグローバルブランドがいくつもある。だが18世紀のスコットランドとアイルランドで、ウイスキーは主に地元で消費される少量生産のスピリッツだった。
同じ時期のイングランドでは、むしろジンの人気が上昇している。これはジュネヴァ(ジンの起源となったオランダの蒸溜酒)を愛飲するオランダ人のウィリアム3世が国王に即位した影響もあったようだ。
このような状況の中で、アメリカ大陸の植民地に輸出されるスコッチウイスキーもわずかながら存在していた。スコットランドからニューヨークに移住したカドワラダー・コルデンは、領主、地主、作家、法学者として著名な人物だ。コルデンは1722年に故郷のケルソーから荷物と手紙を受け取っている。差出人のウィリアム・キースなる人物は、その手紙に次のようなメッセージを書いている。
「角瓶に入っているのは、試飲用のウスケバウです。品質についてご意見をお聞かせください。蒸溜器はまだ設置されていません。厳しい気候のため、人々が働けないからです」
スコットランドの故郷から、「角瓶」のウイスキーを受け取っていたコルデン。当時のグラスゴーはすでに帝国的な繁栄を遂げ、植民地貿易(主にクライドサイド経由)が活況を呈していた。この貿易ルートは、後に大西洋を跨いだスコッチウイスキーブームの舞台となる。
同じ時代には、人知れずスコッチウイスキーの成長に大きな影響を与えた一人のスコットランド人が現れる。堂々たる長身から、「グレート・ダニエル」の異名をとったダニエル・キャンベルだ。スコットランドとアメリカ大陸を股にかけ、植民地貿易で身を立てた有力者である。
キャンベルは、合法的な貿易と密輸を巧みに組み合わせることで利益を上げていた。イングランドとスコットランドによる英国連合の支持者でもあり、新興都市グラスゴーのショーフィールドに大邸宅を構える裕福な国会議員としても知られていた。
そのような輝かしい人生を送っていたキャンベルだが、1725年に導入された「モルト税」を理由に大衆の怒りを買うことになる。モルト税の導入によって、スコットランド産のビールやウイスキーはすべて高額になった。これに怒ったグラスゴーの暴徒たちが、キャンベルのショーフィールド邸宅を襲って略奪した。
いわゆる「モルト税の暴動」は、ウェイド将軍の介入によってようやく鎮圧された。このウェイド将軍は、後に1745年のジャコバイトの反乱も鎮圧する名将である。 そんなキャンベルの人生をヒントに、グラスゴー蒸溜所は最近「モルトライオット」という名のブレンデッドモルトウイスキーを発売している。いずれにせよ、このような歴史を振り返るとキャンベルの人生には皮肉な側面も確かにあった。
このモルト税の暴動を機に、キャンベルは暴徒たちから身を守ろうという考えから島を購入した。それも、ただの島ではない。今では誰もが知るアイラ島だ。歴史上で初めて正確なアイラ島の地図を作成し、道路を建設し、大麦の栽培を支援した人物はダニエル・キャンベルだった。つまり偉大なるキャンベルこそ、アイラ島を近代的なウイスキーづくりが可能な場所に変えた功労者なのだ。
キャンベルの孫(祖父と同姓同名のダニエル)は、1779年にアイラ島最古の蒸溜所となるボウモア蒸溜所を設立した。ここまでがダニエル・キャンベルの物語である。本人の意思とは無関係に、キャンベルは今日の私たちが知るようなスコッチウイスキーの土台を築いた。
この頃、大西洋の向こうはアメリカ独立戦争の最中であった。
新大陸をラム酒が席巻していた理由
スコットランドでは、18世紀後半までに蒸溜酒製造の技術が普及していた。ただし大規模な工場ではなく、農家が家庭レベルで生産するためのノウハウである。このような技術が多くのスコットランド人と共に海を渡り、ウイスキー蒸溜をアメリカ大陸の植民地にもたらすことになる。
だがウイスキーは、単独で初期のアメリカ合衆国における酒類市場を席巻したわけでもない。なぜなら新大陸では、すでにラム酒が代表的な蒸溜酒として親しまれていたからだ。アメリカにおけるウイスキーの歴史は、ラム酒の地位を奪っていくプロセスである。
タバコや綿花と同様に、ラム酒はいわゆる三角貿易と奴隷労働の産物だった。英国でも、1701年にはグラスゴーに4軒の砂糖工場とラム酒の蒸溜所が設立されている。そして1770年の記録によると、アメリカ大陸の平均的な英国人入植者が1週間に3パイントのラム酒を消費していたという。
当時のアメリカの人口は、現在の100分の1に過ぎない。それでも当時のラム酒の消費量は、現在の米国における消費量とほぼ同等だ。ラム酒の人気がいかに破格だったかよくわかるだろう。
だがそんなラム酒にも弱点はあった。それは樽熟成を施されたブランデーのような蒸溜酒に比べて、低級な酒だと見なされていたことだ。ラム酒は1710年代に全盛期を迎えたエドワード・ティーチ(通称「黒ひげ」)のような海賊と結びつけられていたが、そのようなイメージには根拠もある。
バージニアの農場主ウィリアム・バード2世(リッチモンド市の創設者)は、ラム酒を「低級な酒」と切り捨てていた。裕福な地主として奴隷を所有していたバードは、貧しいラム酒の愛飲家たちと一緒にされるのが嫌だったのだ。
その一方で、バードは先住民にラム酒を販売して搾取する事業からも多額の利益を得ていた。バードは1711年の日記に、先住民(おそらくノットウェイ族)の少女ジェニーをラム酒で酔わせ、暴行した事実を日記に書き残している。
当時、このような植民地支配の暴力は珍しくなかった。ラム酒の生産自体が奴隷制度と密接に結びついており、ジョージア州の創設時にバードが書いた手紙にもそのような背景が描かれている。
新しいモデル植民地として構想されたジョージア州は、奴隷制もラム酒も存在しない州になるはずだった。バードは1736年にジョン・パーシーバル(ジョージア州創設時の理事)に宛てた手紙で、「ラム酒と黒人を排除することは、極めて正当な行動です。あなたのジョージア植民地は、幸せな場所になることでしょう」と当時の構想を称賛している。
このような理想があったにもかかわらず、ジョージア州におけるラム酒と奴隷制度の禁止は長く続かなかった。それまで英国植民地の蒸溜所では、年間約500万ガロンのラム酒が生産されていた。しかしアメリカ独立革命によって状況は大きく変わり、ラム酒は衰退の一途をたどり始める。英国資本の砂糖精製業者は、新たに独立した米国への砂糖の供給を停止。その結果、1790年までにラム酒の1人当たりの消費量は4分の1にまで減少した。
そして米国内のラム酒製造も、1800年までに50%減少と衰退していく。ラム酒の原材料が枯渇する一方で、奴隷制度廃止の動きも政治的な勢いを増していった。
(つづく)