アメリカンウイスキーの黎明期【後半/全2回】
文:ハリー・ブレナン
新大陸の移民たちは、やがてアメリカ独立戦争の時代に入る。奴隷制度や三角貿易と密接に結びついたラム酒の製造も、宗主国である英国との戦いによって衰退を迎えつつあった。
そんな変化と危機の時代に、新しいスピリッツとして登場したのがウイスキーだった。ウイスキーは新しいアメリカ合衆国の象徴に相応しいドリンクだ。新大陸で栽培された穀物からつくられるので、イギリス商人や奴隷の介在も必要ない。国内で余剰となった農作物さえあればよかったのである。
アメリカンウイスキーの黎明期から、コーンがウイスキーの主な原料となった理由もここにある。これは今日でもバーボンウイスキーの製造に受け継がれている伝統だ。何世紀にもわたる土着の栽培と入念な土壌管理のおかげで、開拓されたばかりのオハイオ州やケンタッキー州ではコーンが豊富に収穫できた。
その一方で、ペンシルベニア州やメリーランド州などの古い入植地では、ライ麦がウイスキー蒸溜に多く使用されていた。ヨーロッパではコーンが家畜の飼料や農民の食べ物と見なされていたため、ウイスキーの原料には使用されてこなかったからである。
当時のウイスキー蒸溜は、現在のような専門業者による通年の産業活動ではなかった。あくまで季節ごとに農民が少量生産するスタイルである。穀物が腐る前に加工し、保存可能な人気製品(しかも場所をとらない)に変えるのがウイスキー製造の目的だった。
植民地化から間もない1780年代のケンタッキーのような地域では、現代のような道路、運河、鉄道などのインフラはない。それでも50ガロンのウイスキーは、馬に乗せて簡単に運ぶことができた。
移動しやすく信頼性も高いウイスキーは、アパラチア山地の辺境で通貨の代わりにもなる。1787年に創刊された地方紙のケンタッキー・ガゼット紙は、初代編集者の声明として「定期購読料の支払いはウイスキーでも代用可能」と読者に伝えている。
ウイスキーの価値は、発足したばかりの連邦政府の目にも留まった。かくしてウイスキーは、アメリカで初めて施行される物品税の対象となり、政府が定める規制の対象となった。やがては軍事作戦の対象にもなるのである。
独立戦争後の1791年、アメリカ政府は4500万ドル(現在の価値で15億ドル以上)の戦争負債を抱えていた。この返済のため、初めて真剣に取り組んだ徴税が「ウイスキー税」だった。つまりウイスキーは、この国が手に入れたばかりの独立を支える存在にもなったのである。
初代大統領の功績と悪名
ウイスキー税を導入したアレクサンダー・ハミルトンは、アメリカ建国の父の一人に数えられる人物だ。その生涯は、大人気のミュージカル『ハミルトン』でも描かれている。その劇中に、「ウイスキーに税金を課したら、どうなるか想像してみろ」という台詞がある。
ハミルトンは、開拓時代の経済におけるウイスキーの役割を誤解していた。そのため税金を高額に設定し、農民たちに硬貨で納税を求める。だがこの要求は間違いだった。事実上の地域通貨だったウイスキーに対し、1ガロンあたり7セントの課税は高額すぎた。
さらに稚拙な政策と見做されているのは、蒸溜業者の優遇である。大規模なウイスキーメーカーは、生産量の増加に応じて課税額が増える訳でもなく、あらかじめ決められた定額の税金を支払うだけでよかった。こうした優遇を受けた大規模生産者のなかで、特に注目すべきは当時の大統領ジョージ・ワシントンである。
ワシントンは飲酒の習慣を批判し、「この国の労働者の半数が破滅する悪因」と断じている。だがその一方で、みずから大規模なウイスキー工場を運営するという二枚舌を使っていた。ワシントンが死去した1799年の時点で、彼の蒸溜所は国内最大の規模を誇っていた。年間11,000ガロンのウイスキーが生産され、6人の奴隷が労働力として働いていたのである。
この蒸溜所の設備は、スコットランド人のジェームズ・アンダーソンが設計している。ライ麦を約60%、コーンを35%、大麦モルトを5%の割合で混合したマッシュから、2回蒸溜でスピリッツを生産していた。
アメリカ独立から間もない1794年には、武装した7,000人の民間人が山から現れてウイスキー税の廃止を要求する事件があった。この時は、ハミルトンとワシントンが連邦軍13,000人を動員して暴動を鎮圧している。
しかし結局は反乱軍の主張も通り、10年後にウイスキー税は廃止された。いずれにしても、アメリカ合衆国の初代大統領は、当時最も成功したウイスキーメーカーの頭領として生涯を終えたのである。
この時代の小規模なウイスキー製造に関する詳細情報はほとんど残っていない。それでもウイスキーの熟成方法については推測ができる。貯蔵や輸送には木樽を使用するのが一般的で、大西洋を挟んで数十種類のサイズの樽が船で流通していた。バリック、パンチョン、ファーキン、ホグスヘッド、パイプなど、現在でも使用されている雑多な樽の名称はこの頃から混在している。
初期のアメリカで生産されたウイスキーは、そのほとんどが樽内での熟成を意図しないホワイトスピリッツだった。ジョージ・ワシントンは、容量120ガロン(450L)のオーク樽にウイスキーを貯蔵していたが、すぐに30ガロンの樽(チャーは施していない)に移し替えて販売用に送り出していた。
このプロセスで、売れ残ったウイスキーは自動的に樽熟成の状態で貯蔵されることになる。ワインの樽熟成はすでによく理解されていたため、ウイスキーメーカーはオーク材がウイスキーの風味に影響を与えることを知っていた。
ポートワインやマデイラワインの樽は、その頃からアメリカ大陸でも流通していた。スコットランド出身の農民たちがウイスキーを製造し始めたアメリカ開拓時代に、スコットランドの裕福な商人たちがさまざまなワインを取引していたからだ。
ポートワインは1750年から1780年の間に人気が高まった。これはちょうどアメリカ独立戦争の時期にも当たる。マデイラワインはさらに人気が高く、ジョージ・ワシントンがゲストをもてなす際にも好んで供していた。マデイラ島で貿易に従事していた外国商人の3分の1はスコットランド人で、マデイラの大規模な輸出業者の半数はスコットランドの業者だった。
これらの業者が輸入したワイン樽は、すべてヨーロッパ産のオーク材でできていたはずである。ポートワイン、マデイラワイン、シェリー酒、ボルドー産赤ワインなどの樽が、どれほど意識的にウイスキーの貯蔵や熟成に再利用されたかはわかっていない。
初期の開拓者たちのおかげで、アメリカンウイスキーの製造は定着し、地元で生産されるコーンとスコットランドの蒸溜技術によってその香味やスタイルを特徴づけられるようになった。現代のウイスキーファンにとっても、まことに興味深い混乱期の歴史である。