アラン蒸溜所の21年

November 14, 2016


ウイスキーづくりが途絶えてから、150年以上経った静かな島。そこでゼロからの挑戦を成功させたアラン蒸溜所は、その後に続く蒸溜所新設ブームの原動力になっている。あのとき、誰が、何をしたのか。ロックランザでの21年を振り返る。

文:クリストファー・コーツ

アラン島は、クライド湾で最大の島である。かつては荒涼たる大地も味方して、密造酒に格好の隠れ家となっていた。エアーシャーやグラスゴーの目と鼻の先にあるため、隠語で「アランの水」と呼ばれていたアラン産のウイスキーは重宝された。その品質も評判が高く、1824年にヘブリディーズ諸島を旅した地質学者のジョン・マカロック氏は、アラン島を「密造酒界のブルゴーニュ」と称えている。

だがそんな名声も虚しく、1837年にはこの島で最後の合法な蒸溜所であるラッグ蒸溜所が閉鎖された。時代の流れに逆らえる者はいなかったのである。それからアラン島で新しい蒸溜所の建設計画が持ち上がるまで、実に150年以上の月日が流れた。

1990年代初頭、シーバスブラザーズ(シーグラム)やハウス・オブ・キャンベル(ペルノー)でマネージング・ディレクターを歴任してきた「ハル」ことハロルド・カリー氏が、自分の蒸溜所を建設したいという長年の夢を検討しはじめたのが事の発端だった。

そのハルの蒸溜所の建設地としてアラン島が浮上したきっかけは、友人でもあるグラスゴー在住の建築家、デビッド・ハッチソン氏によるところも大きい。ハルとデビッドは、ホワイト・ヘザー・ディスティラーズのプロジェクトでともに働いた仲だった。1991年3月8日、グラスゴーで開催されたアラン・ソサイエティの会合に出席したデビッドは、アラン島が自分の新しい挑戦に相応しい候補地のひとつであると意識し始める。

当初より、ハルは自分なりの見識に基いた健全な懐疑主義を持っていた。確かに1980年代には多くの蒸溜所が閉鎖に追い込まれていたが、1990年代に入って再稼働したリンクウッド、ディーンストン、ベン・ネヴィスの例もある。さらにハルは、アラン島に蒸溜所を建設する利点がいくつかあることにも気づいていた。アラン島というというユニークな場所でウイスキーのアイデンティティを示せるのはもちろん、観光業が主要産業であるスコットランドで、雨の日でも楽しめる観光地になれば、やりくりが厳しい最初の数年間の収入源を確保できるのではないかと見込んだのである。

 

クラウドファンディング的発想で初期費用を捻出

 

現在の原酒生産量は、年間750,000リッター。これが2016年の設備拡大以降は年間約120万リッターに増える。

次なる問題は、このようなプロジェクトに出資を募る方法だった。答えの一部は、ハルの息子のアンドリューが思いついた。彼は「ボンド」を販売しようと発案する。ボンドの購入者は、蒸溜から5年後と8年後にボトリングされたウイスキーを優先的に受け取り、その後も生涯ずっと割引価格でアランのウイスキーが購入できる。サッカーのウエストハム・ユナイテッドFCがスタジアム増築に使った手法を、アンドリューは応用したのである。ボンド1口を400ポンドに設定して全4,000口のボンドを販売すれば、プロジェクト遂行に必要な160万ポンドを集められるだろうという計算だった。

しばらくして、大学で地質学を学んだデービッドの息子のマークが、島内でウイスキーづくりに適した建設地を探し始める。さまざまな候補地が浮かんだが、水の供給が問題となって諦めた場所も多かった。例えばコリーとサノックスは、どちらも炭鉱の歴史がある町。ブラックウォーターフットでは、伝統ある農業への影響を懸念された。ホワイトニングベイの酸性土は、ウォッシュの品質管理が難しくなると判断された。

最後に提案された場所がロックランザで、イーサンビオラック川がバラリー橋の下をくぐる地点のそばだった。十分な水量が得られるばかりでなく、上流地域は交通が不便なため、将来にわたって自然が荒らされる見込みはほとんどない。さらにサノックス不動産は、蒸溜所建設計画が認可されたら、川からの取水許可付きで2.35ヘクタールの土地を販売しようと申し出た。この計画が1991年8月31日付けのアランバナー紙で報道され、アラン島の住民が初めて蒸溜所建設計画を知ることになった。

科学的な調査によって、ロックランザの水質がウイスキーづくりに理想的であることが証明されると、見通しはさらに明るくなる。このニュースを受けて公式な蒸溜所建設計画が提出され、議会などでの協議が終わると「アラン・ボンド」販売によるファンドレイジングのキャンペーンが始まった。報道が拍車をかけるかたちで、人々は蒸溜所建設について活発に議論を交わすようになる。アランバナー紙が経緯を事細かに伝えたことで、最終的には蒸溜所建設を望む島民が増えた。新しい蒸溜所は、島に経済効果をもたらすと期待されたのである。

1994年の2月から5月までの間、巣作りをするウミワシに影響が懸念されるという予想外の事態で建設計画が中断した。しかしこの遅れを利用して、ハルは追加投資を呼び込むことに成功する。ボンドによるファンドレイジングが当初の目標額に届かなったため、建設再開までに不足分の資金が必要だったのだ。

1994年12月16日に工事が本格的な始まると、事態はスムーズに進行した。アイルランドのクーリー蒸溜所で蒸溜所長を務めていたゴードン・ミッチェルを蒸溜所長に任命し、1995年6月29日の木曜日に最初のニューメイクを蒸溜。翌日の金曜日に最初の樽詰めがおこなわれた。最終工事で短い中断が入った後、蒸溜所は8月17日に公式開業する。この年、当時はまだプレハブの仮設建築に過ぎなかったビジターセンターに25,000人以上もの人々が足を運んだ。

 

時を重ね、新しい時代へ

 

1998年には、人気絶頂のユアン・マクレガーが蒸溜所初の公式リリースを祝った。

アラン島にやってくる観光客の要望が、ビジターセンターの整備を加速させた。1997年8月9日、アラン蒸溜所のビジターセンターは女王陛下の除幕で正式オープン。エリザベス女王がウイスキー蒸溜所を公式訪問するのは2度めで、1980年にボウモアを訪ねて以来ちょうど17年ぶりのことだった。その約1年後には、アランモルトの復活を告げる公式イベントを開催。映画『トレインスポッティング』でおなじみのユアン・マクレガーがアラン蒸溜所を訪れ、法的にスコッチウイスキーと呼べる最初のカスクを開けた。

その翌年、75歳になったハル・カリーはディレクター兼名誉会長に退き、息子のアンドリューもまた取締役を退任してバンクーバー島のシェルターポイント蒸溜所に移籍。アンドリューの弟、ポール・カリーは2003年まで取締役に残った後、カンブリア州でレイクス蒸溜所を設立した。同年に欧州地域のセールスディレクターとして入社したユアン・ミッチェルが、後にアラン蒸溜所のマネージングディレクターとなる。

それからの10年間は厳しいビジネスの月日となったが、着実に海外販路も拡大することができた。ロバート・バーンズ・ワールド・フェデレーションとのパートナーシップも価値がある。アラン蒸溜所のスコッチウイスキーのボトルに、スコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズの名前と肖像画を使用する許可を認められたのだ。2007年には、アイラ島からボウモア蒸溜所長を30年務めたジェームズ・マクタガートを新しい蒸溜所長に迎える。現在もジェームズは毎週アイラ島からアラン蒸溜所に通っている。

アラン蒸溜所は、2015年に過去最高益となる625万ポンドの売り上げを記録した。純利益も100万ポンド超との報告があり、2016年後半には新しく2基のポットスチルが増設される計画が発表された。

生涯をスコッチウイスキー業界に捧げたハル・カリーは、2016年3月に91歳でこの世を去る。だが最後に、自らが創設した蒸溜所の到達点ともいえる「アラン18年」の発売を見届けることができた。

そしてアラン蒸溜所は、アラン島で第2の蒸溜所を建設する計画を公表した。場所はアラン島南部のラッグ近郊で、年間150万リッターの原酒生産を目指している。計画に認可が下りれば、2018年にはスピリッツの蒸溜が始まり、アラン島におけるウイスキーづくりの新しい1ページが始まることになる。

 

 

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