世界的な人気の急騰に応えるため、ベンチャーウイスキーが秩父に新しい蒸溜所を建設した。本格稼働を目前に控えた現場からレポート。

文・写真:ステファン・ヴァン・エイケン

 

ウイスキーファンの「イチローズモルト」ブランドに対する熱狂は、留まるところを知らないようだ。だが素晴らしい熱狂も、行き過ぎると制御不能に陥ってしまう。今年5月に開催された「東京 インターナショナル バーショー 2019」で、そんな過熱ぶりを象徴する出来事があった。

騒動はバーショー初日の朝に起こった。動機はあまり褒められたものではない。100本限定で販売された秩父蒸溜所の記念ボトル(シングルカスク)を求め、禁止されている前夜からの行列ができた。ウイスキーファンと転売目的の業者グループが入り乱れて混乱が起こる。小競り合いに発展して警察が出動する事態に至り、2日目の販売は中止を余儀なくされたのである。

このような事態が起きてしまったことに、関係者全員が嘆いている。だがイチローズモルトをめぐる過熱ぶりが、すぐさま沈静化されることも想像しがたい。

需要が供給を大幅に上回る。その極端な例が、現在起こっている。幸いなことに、ベンチャーウイスキー社長の肥土伊知郎氏は、いつも道のだいぶ先にあるカーブを察知できるタイプの人物だ。他の誰もがそんなカーブすら見えていない時点で、一足先に準備が始められる。だから現在の状況に対しても手は打っていた。需要増大への対策はひとつしかない。つまりは増産であり、具体的には新しい第2蒸溜所の建設である。

5月中旬、ウイスキーマガジンは秩父を訪ねた。「もともと秩父蒸溜所の生産量が少なすぎたんですよ」と説明する肥土氏。2交代制で稼働させても、1日に生産できるスピリッツは純アルコール換算で約320Lだった。これはわずかにバレル2本分を超える程度の量である。

銅製の蓋を乗せたステンレス製のマッシュタン。側面には特注の窓が付いており、内部の様子が細かく確認できる。

「第2蒸溜所の建設について考え始めたのは5年くらい前のことです。それを実行に移そうと決めたのは3年前。秩父蒸溜所の設備を納入してもらったフォーサイス社に連絡を取りました」

サントリー、ニッカ、本坊酒造などの先駆者たちは、いずれも2軒目の蒸溜所の建設地を1軒目とは大きく異なった場所に求めた。これはもちろん異なった特性を持つ原酒をつくるためである。だが肥土伊知郎氏は、あくまで本拠地である秩父に留まろうと決めていた。

「場所探しは簡単に行きませんでした。第2蒸溜所の建設地を求めて候補地をたくさん見学しましたが、ここぞという場所に出会えなかったんです」

だが運命の場所は、意外なくらい近所に見つかった。実際に訪ねてみると本当に近い。車ならわずか2分ほどの距離なのだ。埼玉県が地元企業に貸し出している工業団地の一区画で、もともとの借り主は自動車メーカーに提供する部品を製造している会社なのだという。

「その会社の社長さんが、ウイスキーが大好きなんです。というか、秩父蒸溜所の『モルトドリームカスク』のオーナーでもあります。その会社の隣に広さ15,000㎡の未使用の土地があり、なんとか賃貸契約を引き継げるように取り計らってもらいました」

蒸溜所の建設は、2018年4月に着工。それから1年以上が経った今、蒸溜所はほぼ完成といえる段階にまで到達した。ほとんどの設備に青い防水シートが被せられ、6人の建設作業員が忙しそうに建物周辺で仕事をしている。期待と高揚感の入り混じったムード。新しい生産拠点の仕上がりには肥土氏も満足しているようだ。

「試験生産を6月中にスタートできると思います。夏休みをはさんで、いよいよ初年度のシーズンが始まります」

 

人間の感覚に頼ったアナログ路線を堅持

 

探究心が旺盛な肥土伊知郎氏であるが、あらゆるパラメーターを変更しながら実験をおこなうのは無意味だと考えている。例えば複数の酵母菌株を使用して発酵工程にバリエーションを求める蒸溜所もあるが、秩父蒸溜所で使用される酵母菌株は1種類のみ。新しい蒸溜所の設計も、既存の秩父蒸溜所と大きく異なるものではない。

実際のところ、第2蒸溜所ではかなりの部分がこれまでの秩父蒸溜所の方針を踏襲している。だが大きく違うのはスケールだ。第2蒸溜所の生産規模は、これまでの5倍である。予定される年間生産量は、純アルコール換算で240,000Lだ。このような大増産を、たった一度の設備拡張で達成しようというのである。

蒸溜所の建物周辺を歩きながら、肥土伊知郎氏が新しい生産工程のあらましについて説明してくれる。原料は大麦モルト2トンでワンバッチ。ノンピートが主体だが、メンテナンスのために設定する夏休み直前の数週間はピーテッドモルトも使用する。アランラドック社製の最新型ミル(粉砕機)は、すでに稼働準備が整っていた。使用する水は、これまで秩父蒸溜所で使用してきた水と同一である。

容量各15,000Lのウォッシュバックは、フレンチオーク材を使用したフランス製。いずれは8槽まで増やす予定だ。

マッシュタン(糖化槽)はステンレス製で、銅製の蓋が付いている。秩父蒸溜所のマッシュタンはとても小さく、これまでは人間が木べらでかき混ぜてきた。セミラウタータンも付いて大幅に省力化されるが、行程は事細かにモニタリングされるのだという。マッシュタンの側面にはガラスでできた縦長の覗き窓がある。

「この窓は特注で付けてもらいました。グレーンベッド(麦芽の殻の層)の状態や、濾過されていく状況をしっかりとチェックしたいですから」

いささか神経質ではないかという人もいるだろう。だがこのような細心の注意こそ、肥土氏のウイスキーが素晴らしい品質を維持している理由のひとつなのだ。

発酵工程について、肥土氏はこれまで通り木製のウォッシュバック(発酵槽)を継承した。だがその内容はまったく同じではなく、真新しい変更を加えている。

「これまでの蒸溜所と同様に日本のオーク材を使いたいと思ったのですが、サイズがここまで大きくなるとミズナラ材の桶板はまず手に入りません。そこでミズナラを諦めて、フレンチオークにしようと決めたのです。何度も訪ねたことがあるフランスのタランソー樽工房で、素晴らしい木製のタンクが造れることを知っていました。そこで新しい蒸溜所のためにウォッシュバックを注文したんです」

現在ここにあるフレンチオーク材のウォッシュバックは5槽。容量は各15,000Lで、普段の業務では10,000Lのワート(麦汁)が投入される。だが蒸溜所内には、まだ空いているスペースがあった。「2交代制のシフトになるタイミングで、新たに3槽を追加します」と 肥土氏は語る。

酵母に関しては、これまでの秩父蒸溜所と同じ酵母菌株を使い続ける。前述のように、パラメーターをいじりすぎないようにするためだ。

「同じ酵母菌株を使うのは、新しい蒸溜所のスピリッツをこれまでの秩父蒸溜所のスピリッツと比較したいから。その検証が済んだ後、もっと別の良い方法があれば変更を検討するかもしれません」
(つづく)