禁酒法、大恐慌、世界大戦を生き延び、崖っぷちのウイスキー不況を乗り越えて今がある。現在も続くスコッチ人気の背後に、想像を越えた一企業の歴史があった。

文:マーク・ジェニングス

 

第1次世界大戦と禁酒法の後も、混乱は時代はまだまだ続く。特に1929年から始まった大恐慌は、世界経済に混乱をもたらした。ウイスキー業界も販売の減少と経営難が切迫し、ディスティラーズ・カンパニー・リミテッド(DCL)は債務超過を回避するために苦渋の決断を迫られる。

その決断とは、つまり1877年の合併時に設立された複数の蒸溜所を閉鎖すること。しかしさまざまな生産コストを抑えながら、DCLは決して休眠することがなかった。ウイスキー評論家のデイヴ・ブルームは次のように語る。

「まさに自己防衛のため、DCLはさらなる経営統合に乗り出します。スコッチウイスキーというカテゴリーが生き残るには、DCLとしても企業統合を進めるしかなかったのでしょう」

スコッチ最古を謳うヘイグもDCLの人気銘柄。たくさんの蒸溜所で生産される多彩な原酒を駆使し、有名なブレンデッドウイスキーをいくつも抱える経営スタイルは現在のディアジオにも引き継がれている。

こうした困難にもかかわらず、DCLは驚くべき回復力を示した。ジョン・ウォーカー&サンズが1925年にDCLと合併した際、取締役にはジョン・ウォーカーの孫にあたるアレキサンダー・ウォーカー2世が就任。さらにDCL経営陣は、伝説的な仕事人ウィリーことウィリアム・ロスをリーダーに据えた。

このウィリアム・ロスは、それまで同族経営が伝統だったDCLが初めて外部から登用した取締役である。ロスは持ち前のバイタリティーで出世の階段を上り、最終的にはDCLの会長に就任した。その過程で、ロスは多くの大胆な施策に深く関わっている。

ウィリアム・ロスには先見の明があった。荒波を乗り越えてDCLが生き残るだけでなく、苦境の中でも戦略的に進化するというビジョンだ。そして有能な反面、ロスは情け容赦のない人物でもあった。その犠牲になったのが、アイルランドのウイスキー業界だ。

合併と買収を繰り返したDCLは、1920年代までにアイルランドのグレーンウイスキー蒸溜所をほとんどすべて(例外は1軒のみ)所有するまでになっていた。ウイスキー産業史研究家のR・B・ウィアーが記した『DCLとアイリッシュウイスキー貿易(1900〜1939年)』の中には、次のような記述がある。

「アイルランドのグレーンウイスキー製造は、1922年を境にDCLが牛耳ることになった。アイリッシュウイスキー業界に影響を与えるすべての決定は、エディンバラのDCL取締役会でなされていた」

ポットスチルウイスキーの蒸溜所など、アイルランドのウイスキー蒸溜所は1929年までにすべて閉鎖された。当時の取締役会の議事録を検証したウィアーは、閉鎖の理由をいくつか特定している。ウイスキーの国際市場から、ライバルを排除することがDCLの生き残りに有益だったことは間違いない。

当時の議事録には、ウィリアム・ロス自身の「アイルランドのウイスキーは取るに足らない存在だ」という発言(1933年)も残っている。すでにDCLはさまざまな方策でアイルランドのウイスキー業界を衰退させていたので、この発言自体も驚くべきものではなかった。

デイヴ・ブルームは、この時期のDCLを次のように総括している。

「禁酒法の打撃を回避して、英連邦の市場でもがきながら、スコッチウイスキー業界は1930年代の初めまで何とか持ちこたえていました。アメリカンウイスキーは禁酒法でほぼ姿を消しましたが、スコッチは血まみれになりながらも生き残っていたのです」
 

相次ぐ買収劇でサバイバル

 
やがて1930年代の終盤に差し掛かると、ヨーロッパは再び壊滅的な戦争の目前にいた。だがDCLには、第1次世界大戦から得られた生々しい教訓がある。だからこそ、第2次世界大戦がもたらすであろう混乱への備えは始まっていた。

すでに確立されていたDCLの多角的な事業展開は、工業用アルコールや化学部門との複合的な経営によって、先の見通せない戦争の時代に対処する上で功を奏したといえるだろう。

避けられない困難を乗り切るため、DCLの経営陣は十分な原酒の蓄えを確保し、財務的に堅固な企業体制を維持していた。世界大恐慌による生産拠点の閉鎖や人員削減で、DCLの経営は徐々にスリム化されていく。だが一方ではレジリエンスも増して、今後起こり得る事態に適応できる企業体質となっていたのである。

スコッチウイスキー業界は、印刷デザインの歴史に残る名広告を生み出している。1970年のホワイトホースは、写真と絵画を組み合わせた幻想的な世界観だ。メイン写真はおなじみのキャラクター「ジョニーウォーカー」(1948年)。

スコットランドを代表する産業のリーダー企業として、DCLは1939年までにその地位を揺るぎないものにしていた。その影響力はウイスキーの枠を超え、戦時中に重要な役割を果たす他分野にまで広く及んだ。優れたビジネス手腕だけでなく、歴史の大きな流れを予見しながら適応する能力がDCLには備わっていたといえるだろう。

第2次世界大戦後も、DCLは急速に変化するグローバル市場に適応しながら事業を拡大し続けた。スコッチウイスキーに対する世界的な需要は徐々に高まり、1960年代と1970年代には技術革新とマーケティングの分野で集中的な取り組みがおこなわれた。

だがその一方で、スコッチウイスキー業界全体は競争の激化や近代化の必要性といった課題に直面していた。もちろんDCL社内にも課題があった。単一の企業体であるDCLの中にジョニーウォーカー、デュワーズ、ブキャナンズ、ヘイグなどのブランドが同居し、それぞれのブランドが独立した領地のように運営されていた。徐々に人気を獲得するシングルモルトの製造部門も同様の状況だった。

当時からジョニーウォーカーは世界で最も売れているスコッチウイスキーだったが、1970年代後半のDCLは英国での売り上げ低迷にあえいでいた。かつて1960年代初頭には英国スコッチ市場の約75%を占めていたDCLも、1984年には国内シェアが16%にまで落ち込んでしまった。この時期の状況をデイヴ・ブルームは次のように分析する。

「それ以降に起こる数々の買収は、結局のところ避けられなかったでしょう。本来の事業から離れ、DCLはあまりにも多くの他分野に手を広げ過ぎていました。これは企業としての戦略ミスだったと今なら言えます」

ジェームズ・ガリバーのアーガイル・グループ(スーパーマーケット「ファイン・フェア」とグレンスコシア蒸溜所の運営会社)が、その流れで1985年に敵対的買収を提案した。この提案は拒否されたものの、DCLは自社を立て直すためにビールメーカーのギネス社を「白馬の騎士」と見込んで対抗買収を提案した。

一連の買収劇は、英国内外でも大きなニュースとなりって物議を醸した。結局は野心家として知られたアーネスト・サンダースCEO率いるギネス社が、1986年に強引な買収でDCLを買収。この買収にはさまざまな勢力が暗躍し、違法行為が関与していたことも後日判明している。

こうやってDCLは独立企業としての歴史に幕を下ろした。だが同時に、新たに世界的な飲料大手企業が誕生する道筋をつけることにもなった。

やがてギネス社は1997年にグランド・メトロポリタン社と合併し、アルコール飲料業界の巨大企業ディアジオが誕生する。現在もディアジオは世界最大のスピリッツメーカーであり、DCL時代からの歴史あるブランドの多くを傘下に収めている。

スコッチウイスキーに深く根ざしたDCLの遺産が、ディアジオの管理下で繁栄を続けているのはご存じの通り。今はなきディスティラーズ・カンパニー・リミテッドのパイオニア精神は、すべてのボトルに今も生き続けているのだ。