ジョージ・ディッケル ―月光に照らされて【前半/全2回】
テネシーに赴いた英語版本誌記者が、ジョージ・ディッケルの謎めいた過去を探る。
さぁ、皆さん、ご注目あれ。テネシーがユニークなウイスキーをひとつやふたつつくっていると言ったところで、別に耳新しくも何でもないが、ご当地でそのひとつを体験した話なら、耳を傾ける価値があるはずだ。
私の任務は、テネシー州タラホーマ近くのノーマンディにあるジョージ・ディッケル蒸溜所を訪れることだった。現在はディアジオの重要な資産であるディッケルの歴史を手短に話すと、1870年にジョージ・ディッケルがカスケードに設立、彼の死後は家族が所有していた。しかし禁酒法時代に入ってから40年近くにわたり、世界はジョージ・ディッケルのテネシーウイスキーなしで過ごすことになった。
幸運にも、蒸溜所は 1958年にマスターディスティラーのラルフ・ダップスによって再建された。彼がディッケルのオリジナルレシピを巧みに引き起こし「月光のようになめらか」な「アメリカ最高のシッピング・ウイスキー」――「ジョージ・ディッケル サワーマッシュ・テネシーウイスキー No. 8」と若干年長の兄弟分である「No. 12」 を再び蘇らせてくれた。この2種に加えて、2007年にリリースされた「カスケード・ホロウ」と「バレルセレクト」、そして初めてのライ「ジョージ・ディッケル ライ」がある。これが簡潔にまとめたジョージ・A・ ディッケル 蒸溜所のストーリーだ。
しかし、実はジョージ・ディッケル氏がカスケードの地に蒸溜所を創設したのでも、所有していたのでもないことが判明している。あのウイスキーは彼がつくったのではなかった – その上、カスケード・ホロウに一度も来たことさえなかった確率がかなり高いと言われている。冒瀆だ、そうとも、だがこれが真相だ 。この話は十分に証明されていて、少なくとも1998年頃にカイ・ベイカー・ガストンの労作、「ジョージ・ディッケル テネシー・サワーマッシュ・ウイスキー ラベルに隠されたストーリー」が出てからは、そういうことになっている。
この話をできるだけ短くまとめてみよう。ジョージ・ディッケルはそもそもテネシーのビジネスマンだった。彼のパートナー、ヴィクター・シュワブとマイヤー・ザルツコッターも。
全員が血縁、あるいは婚姻関係でつながっていて、シュワブとマイヤーは以前、何らかの密輸組織に関わっていたとされている。1853年にディッケルは「ジョージ・A・ディッケル社」を興した。そこでは妻であるオーガスタが経理を担当していた。
ザルツコッターは1871年にパートナーになり、1881年に年下のシュワブが加わった。
さて、少なくとも1865年から、ジョージ・A・ディッケル社の主なビジネス上の関心は酒の売買だったが、当時は会社の名前をブランド名にすることが至極一般的だった。そして、中でも群を抜いて大成功をおさめたのが、ジョン・F・ブラウンとF.E. カニンガムが1877年に設立したカスケードの蒸溜所でつくられる、あるウイスキーだった。
ある時、この蒸溜所はマクリーン・デイヴィスという人物の手にわたり、そこのマスターディスティラーでもあった彼のお陰で、どうやら「ジョージ・A・ディッケル カスケード・テネシー・ウイスキー」のレシピが生まれたらしい。そう、これは本当の話なのだ。1888年にシュワブは蒸溜所の経営権を買い取る。当時、ディッケルは 馬から落ちて大怪我を負い、半ば引退状態だったようだ。そして10年が経ち、誰もが亡くなった―ザルツコッター、ディッケル、デイヴィス…つまりシュワブ以外は。ということで、オーガスタ・ディッケルはシュワブ家に身を寄せ、シュワブは蒸溜所の残りをデイヴィス一家から強制的に買い上げた。
さて、沢山の出来事があったが、重要な新事実は、当時の「ジョージ・ディッケル」のレシピは(ほぼ確実に)デイヴィスのものだったということ、そしてシュワブは大した男だったということだ。彼は同時に、ナッシュビルの「クライマックス・サルーン」という素晴らしい名前の店で多くの事業を行っている。
どちらの事実も、ディッケル夫妻にとって、あるいはそのウイスキー自体にとっても、マイナスにならないばかりかむしろその多彩なルーツに興味深い物語を付け加えていると思われる。
シュワブが采配を振るうようになってから、蒸溜所は繁栄を謳歌して州最大の蒸溜所に成長し、ジョージ・ディッケル社はますます豊かになっていった。
そして、大いなる転換期―テネシー州にも、あの悪名高き禁酒法がやってきた。ウイスキーづくりは北部のルイスビルにあるAPS蒸溜所(後のジョージ・T・スタッグ、現在はバッファロートレース)に移され、その後の国家禁酒法により全生産が停止した。オーガスタは 1916年に、シュワブは1924年に亡くなった。
それから12年後、ジョージ・ディッケル社はシェンリー・ディスティリング社の手に渡り、せっかく手に入れた物の価値が見えなかった同社は、このブランド名を「ジョー・A・ ディッケルズ カスケード・ケンタッキー・ストレートバーボンウイスキー」というバーボンに埋め込んでしまった。テネシーの誇りは消え去ってしまった。 残念ながらこれについては、ほとんど何も知らないと告白しておこう。これがおよそ1950年頃で、ジョージ・ディッケルの名はかろうじて世の中に残っている状態だった。
そしてその状態は、もしかしたら今も続いていたかもしれなかった のだ―1955年にシェンリー社が「ジャック・ダニエル」の買収に失敗しなかったなら。不幸中の幸いというべきか、現在の状況からすれば確かに幸いなことに、それは失敗した。
そこで、シェンリー社は次の計画に乗り出した。カスケードの蒸溜所の埃を払い、ダップスを呼び入れ、再建し、在庫を立て直して―その後はご存知のとおり。再びその名を世界に轟かせることに成功した。
しかし、1990年代には、新たな所有者の元での過剰生産の結果、1999年に閉鎖。製品が市場から引けるのを待って2003年に再オープンしたが、No. 8の払底に苦しんだ(そのため、基本的には穴埋め商品として「カスケード ・ホロウ」を出した)。
ともあれそれも、やっと終わった。
先ず、ダップスの後継者、デイヴ・バックスが率い、現在はマスターディスティラーのジョン・ランによって生産は十分に管理され、市場は喜んでこのウイスキーの再起を祝った。現在ではディッケルは空飛ぶ勢いだ。
【後半に続く】