沈黙を守ってきた埼玉県鴻巣市のクラフトディスティラリーに初潜入。マレーシアの実業家が設立した光酒造鴻巣蒸溜所を訪ねる2回シリーズ。

文・写真:ステファン・ヴァン・エイケン

 

光酒造鴻巣蒸溜所の門を通り過ぎる。その瞬間、自分が風光明媚なネーデルラント地方のどこかにいるような気がした。そんな錯覚にとらわれるのも無理はない。ビジターの正面には印象的な灰褐色の建物が2棟あり、階段状破風のファサードが 17世紀のオランダやフランドルに特有の建築様式なのだ。

左側に視線を移せば、対照的なほど真っ白な邸宅がある。こちらはフランダースの田舎から移築されたような建築だ。だがここは欧州ではなく、日本の田舎である。田舎といっても、東京から北にわずか1時間ほどという近さなのではあるが。

ネーデルラント様式の建築に、ラテン語のメッセージ。欧州本土を思わせる風景だが、ここは関東平野の真ん中だ。

排水タンクを別にすれば、ウイスキーづくりを連想させるヒントはない。例の2棟の建物に向かって歩いていくと、この建物同士をつなぐ錬鉄製の内門があり、ようやくここが蒸溜所であると知らされる。装飾のなかに掲げられた「Dum Spiro Spero」というラテン語は、「生きている限り、希望は持てる」という意味。ヨーロッパらしいイメージは、さらに強まってくる。

だがこのメッセージはヨーロッパというより、かつて東南アジアにあったサラワク王国のモットーなのだという。蒸溜所の創設者兼CEOであるエリックことチョア・クワン・フアさんが説明してくれた。

「私の故郷は、マレーシアの領土であるボルネオ島北部。サラワク王国は、かつてその一帯を100年にわたって支配した王国でした。この建築スタイルは、単なる自分の好みですね。アントワープ、ブルージュ、アムステルダムあたりの古い街並みに憧れていましたから」

光酒造鴻巣蒸溜所は、さまざまな面で特殊な蒸溜所である。まずは日本で初めて外国人オーナーが製造許可を取得したウイスキー蒸溜所であるということ。これだけでも画期的な特徴だが、他のクラフト蒸溜所のような注目をあえて避けながらひっそりと過ごしてきた。

プレスリリースもなし。グランドオープニングもなし。ニューメイクスピリッツのボトリングも、7カ月熟成のボトリングもなし。プライベートカスクの予約受け付けもなければ、ビジターを迎える予定もない。

そんな蒸溜所が、今回ようやく取材を受け入れてくれた。最初に連絡を入れてから、もう1年の時間が過ぎている。スピリッツの蒸溜が始まったのは、2年と数週間も前だ。事業家であるエリックは、自分のビジネス経験からさまざまなことをお見通しだ。PRをしないことが、最高のPRになることもある。あえて人目を避けているスタンスも、戦略というより実利に適っているのだ。

「私たちの会社が、日本のウイスキーファンたちにどう受け取られるのか、よくわからない部分もありました。だから余計なことを気にしすぎるより、目の前の仕事に集中しようと決めたんです。その仕事とは、個性的な最高品質のシングルモルトウイスキーをつくること。そもそも零細企業なので、PRするほどの人手がいないんです」

 

長年の夢が実現するまで

 

エリックは零細企業だという言うが、そこには謙遜も誇張もない。現場に到着して5分で、私はチームの全員に会うことができた。エリックは、蒸溜所によく寝泊まりしているプレイングマネージャー的なCEO。糖化、蒸溜、熟成などの生産工程をすべて管轄しているのは奥澤正雄さん。そして上野恵美さんが経営の実務を一手に引き受けている。この3人だけで蒸溜所を運営しているのだ。

設備をモジュール化して、小さな空間に整然と配置している。将来の再レイアウトもしやすい蒸溜所設計だ。

なぜ57歳になるマレーシア人が、日本の地方でウイスキーをつくることになったのか。そもそもエリックは、30代前半の頃にニューヨークでスコッチウイスキーに出会って魅了されたのだという。それまでに日本と米国で学生時代を過ごした経験もあるエリックは、投資銀行で何年か働いた後に、マレーシアと英国で光ファイバーケーブル関連の事業を営んでいた。

「ここ25年間は、その業界でずっと働いてきました。でも出張のたびにわざわざルートを変えてスコットランドに立ち寄ったりして。そして40歳の誕生日に、蒸溜所を建設しようと決めたんです」

それからの10年間は、ウイスキーづくりの工程について学ぼうと機会を求め、いくつかの蒸溜所で見習いとして働いた。

「なかでも良い体験ができたのは、ノーフォークのセントジョージ蒸溜所とパースシャーのストラスアーン蒸溜所。なぜなら、この蒸溜所は最終的にノーフォークと似たような規模になったし、ストラスアーンもごく小規模で手作業が中心だったから、貴重な学びがたくさんあったんです」

そして50歳の誕生日を迎えたエリックは、ウイスキーづくりのプロジェクトを本格化させる。候補地を探し始めたのは2014年。最有力候補は日本だったが、オーストラリア(特にタスマニア)も選択肢のなかにあったという。だが結局は、日本に腰を据えることになった。

「日本は何年も住んだ場所だし、日本の文化もわかっています。自分の蒸溜所を建てるならこの国だという考えはありました。日本ではしっかりとしたビール造りの伝統もあり、潔癖で凝り性な人も多いので品質の追求には向いていると思っていました」

 

鴻巣市で出会った運命の場所

 

エリックは東京から1時間以内で行ける蒸溜所建設予定地をあちこち探し、ちょうどいい土地を埼玉県鴻巣市に見つけた。購入したのは2015年の夏のことである。

「この土地にはおもしろい歴史があるんです。ちょうどここは、戦国時代に建てられた小谷城の跡地。その後の時代には、絹を作る製紙工場ができました。荒川の上流にある隣の群馬県から生糸が運ばれてきて、この地域一帯で製糸業が活発だったんです」

だが製糸業の時代も長くは続かなかった。海外から安価なシルク製品が輸入されるようになり、化学繊維の品質も向上して、絹の需要が低迷してしまったからだ。

英語の蒸溜所名は「Hikari Distillery」。マレーシア生まれのエリックは、清潔で細部へのこだわりが強い日本を夢の舞台に選んだ。

「鴻巣の工場も次々に閉鎖に追い込まれました。ここにあった工場もそんな不運に見舞われたんです。でも大戦中には、ここでシルク製のパラシュートが造られていたという話が残っていますよ。工場は1970年代になくなって、それ以来ずっと放置されてきた土地なんです」

中山道沿いの鴻巣にはたくさんの造り酒屋があったことから、歴史的にみてもウイスキーづくりに有利であろうという予測もできた。日本酒造りには水質が肝要であるが、この地域の地下水を分析したところ、ウイスキーづくりに適した条件もすべて満たしていた。

蒸溜所の設備は、スコットランドのフォーサイス社に依頼することにした。

「コンパクトな蒸溜所にしたかったんです。生産設備が巨大なレゴブロックみたいに整然と並んだイメージで。蒸溜所内に簡単に設置できて、場所の変更が必要になったら手間なく移動できるのが理想でした。そんなアイデアを転がしていたら、リチャード・フォーサイス・ジュニアが形にしてくれました。設備の一式が2019年11月に日本に届いたので、運良くコロナ禍が始まる直前に設置を完了できたのです」

最初のスピリッツが、蒸溜器から流れ出したのは2020年2月24日のこと。最初の樽詰は3月11日におこなわれた。

蒸溜所が完成しても、ここで実際にウイスキーをつくる人材なしで事業は始められない。日本でウイスキーづくりの経験者を見つけるのは難しい。そこでエリックは間口を広げ、一般的な酒造経験者からこの事業に意欲を傾けてくれる人を探すことにした。

そうやって探し当てた金脈が、茨城県出身の奥澤正雄さんである。年齢は50代前半で、クラフトビール、日本酒、ワインなどの酒造分野で経験が豊富。しかも80年代半ばからバーテンダーとして働き、スコッチウイスキーに魅了されていた。いつかは自分の手でウイスキーをつくってみたいと夢を抱いてきたのだという。

これ以上の適任もいないだろうと思われる仲間が見つかった。実際のところ、生産開始から2年が経った今、奥澤さんがいない蒸溜所の運営は考えられない。
(つづく)