ドグマからの脱却【後半/全2回】
文:マルコム・トリッグス
「ライロー」の開発期間中、インチデアニーは製麦したライ麦モルトをイングランドのマントン社からベルギーのムーラ社に送った。ムーラ社は、定評の高い醸造機器メーカーだ。伝統的なラウタータンではなく、マッシュフィルターを使った糖化の手法を学ぶためである。
ムーラ社でできた麦汁は、酵母と発酵の専門業者であるABビオテック社に送られ、そこでライ麦ワートの発酵に最適な酵母が選ばれた。酵母の選定が済むと、飲食料品の研究開発機関であるカムデンBRI社に酵母とライ麦を送り、インチデアニーがベルギーで学んだ糖化工程と発酵工程を試験的に繰り返した。
そして出来上がったもろみ(ウォッシュ)が容量170Lのドラム缶に詰められ、トラックの荷台に乗ってインチデアニーまでやってきた。ようやく試験用のスチルで蒸溜が始まったのである。
現在のところ、「ライロー」はすべて蒸溜所内で年に4回つくられている。インチデアニーは自前のハンマーミル(ハンマー式粉砕機)、マッシュ変換容器、マッシュフィルターを使用しているが、スコットランドで同様の設備がある蒸溜所はティーニニックのみである。伝統的なラウタータンでマッシュを混ぜるのでなく、分割して濾過することでマッシュの取り扱いが容易になり、糖化工程全体の効率も向上できる。
このような工程を採用することで、インチデアニーはライ麦のように厄介な穀物原料を扱えるようになる。何よりも重要なのは、そうやってできた透明度の高いクリアな麦汁が極めて珍しいということだ。クリアな麦汁を発酵して蒸溜すれば、フローラルでエステル香に富んだスピリッツが得られる。
糖化工程と同じように、インチデアニーの蒸溜工程もまたユニークだ。ウォッシュスチルの蒸溜で得られた「ライロー」用の初溜液(ローワイン)は、特注のローモンドスチルで再溜される。これはポットスチル同様の釜の上にプレート式の精溜器を乗せたスチルで、蒸気の還流とスピリッツの度数をマニュアルで調整できるようになっている。
通常のスピリットスチル(ポットスチル)から流れ出すスピリッツは、時間が経つにつれてアルコール度数が下がってくる。だがインチデアニーのローモンドスチルは、流れ出すスピリッツをずっと一定の望ましい度数に保てる。この望ましい度数とは、スピリッツのフレーバーがもっとも豊かに引き出される度数でもある。
インチデアニーの3つの原理のうち、残るのは「熟成」だけ。ここでもイアンは反逆者らしく、あらゆる既存の慣習を疑って、さまざまなワイン樽による熟成を実験中だ。例えば、ペドロヒメネスのブドウ品種から造られたアモンティヤードスタイルとオロロソスタイルのワイン。このようなワインでシーズニングされた樽をスペインのモンティージャ・モリレス地域から調達している。
インチデアニーはフランスの樽工房とも提携しているが、この樽工房では赤外線分析によって樽板のタンニン含有量を測定している。またイアン自身が「悪い思いつき」と語る発想から、インチデアニーでは樽内を直火で焦がすチャーのレベルについて定説を疑うようになった。多くの蒸溜所は「レベル3」のチャーを採用しているが、「ライロー」ではレベル1からレベル5までの樽を使って熟成の効果を検証している。
「今のところ、確かにレベル3は妥当な選択に思えますね。でもサンプルの熟成が進むにつれて、スピリッツに及ぼす効果はどんどん似てくるようです。レベル1とレベル3の違いが明確なのは最初だけで、その差は熟成が進むほど小さくなってきます」
完全に新しいスコッチウイスキー
ウイスキー業界で40年以上の経験があるイアンだが、インチデアニー蒸溜所におけるウイスキーづくりの哲学は、すべての原理を知り尽くすことができないという「無知の知」から出発している。可能なかぎり、あらゆる手段を講じて理想のフレーバーに近づくしかない。ひとつひとつの疑問に向き合い、実験をして得られた知見からゆっくりと実現していくのだ。
インチデアニーにとって、「ライロー」はまだ始まりに過ぎない。インチデアニー蒸溜所のチームは、ウイスキー業界の枠をあえて飛び出して、外部からの発想や知識を集めるために苦心してきた。このような知識は、これから延々と続くさまざまな実験の土台となるものだ。
それでも個々の開発プロジェクトは、細心の注意を持って計画されている。どの計画も、スコッチウイスキーという既存の枠組みを大きく広げるような内容だ。オート麦からつくるオートウイスキーや、小麦からつくるウィートウイスキー。バーボンのようなサワーマッシュからつくるシングルモルトウイスキー。このように野心的な実験は、結局日の目を見ることなく終わってしまうかもしれない。
イアンは、カナダの蒸溜所で昔からおこなわれている「シングルディスティラリーブレンデッドウイスキー」の可能性も模索している。これはインチデアニーのさまざまなシングルモルト原酒やシングルグレーン原酒をブレンドして、 完全にユニークな蒸溜所オリジナルのウイスキーをつくろうという試みである。
「なんでも屋とか、器用貧乏みたいな印象を持たれるかもしれませんが、実際にはそうではありません。インチデアニーの本分は、フレーバーなのです。つまりスピリッツを蒸溜して、熟成した結果として得られるフレーバーが目的。この最高のフレーバーを獲得するため、スコッチウイスキーの定義を意図的に拡大解釈している戦略なのです」
さまざまな穀物を製麦してスピリッツをつくり、そこから可能なかぎり魅力的なフレーバープロフィールを引き出す。それがイアン率いるインチデアニーの目的だ。
「大衆にまんべんなくアピールするタイプのウイスキーメーカーではありません。そんなものには、たとえ望んだってなれないでしょう。だって、そんなウイスキーをつくって供給するために事業を始めた訳ではありませんから」
日々の仕事ひとつひとつが、ウイスキー業界の新境地を開拓していく足がかりになるとイアンは言う。そんな際立ったメーカーになる権利を、自分たちの力で獲得しなければならないのだ。
「だからブレンデッドウイスキーの会社に販売するウイスキーを重視しすぎて、自分たちのウイスキーづくりに悪影響を及ぼす訳にはいかないのです。無謀に見えるアプローチでも、理路整然とした手順を踏まなければならないのはそのためです」
理路整然と計画を進めながらも、決して既存のドグマに従って安住しない。インチデアニーには、「ファイフで栽培し、ファイフで蒸溜し、ファイフで熟成したウイスキー」というモットーもある。
だがチームの哲学が定義するものは、インチデアニーというメーカーの出自だけに留まらない。最終的には業界全体の伝統と革新を一体化させ、新しいスコッチウイスキーの可能性を定義できるかもしれないのだ。インチデアニーの逸脱には、本質的に大きな可能性が潜んでいる。