ウイスキー人気を広めたインフルエンサーたち【第2回/全3回】
文:クリス・ミドルトン
スコットランドで密造されていたスコッチウイスキーは、19世紀から英国全体を象徴する産品となった。これに伴って、スコットランド人の姿もロマンチックな絵画で描かれるようになる。それまでのスコットランドのイメージは、ここからがらりと変わっていく。
ハイランド地方や島嶼部に住むスコットランド人は、それまでゲール語を話す粗野で未開な人々だと思われていた。それに対してローランドのスコットランド人には、英語を話す文明化された人々というイメージがあった。グラスゴーなどの都市部は、スコットランドを英語化する「スコットランド啓蒙運動」の中心地だった。
スコットランドのイメージを19世紀初頭に刷新した一人が、ロマン派の作家として名高いウォルター・スコットだ。スコットランドのジャコビアン時代を舞台に、英雄的なハイランド人たちを鮮やかによみがえらせた歴史小説で知られる。絵画のように美しいスコットランドを舞台に、浪漫的で誠実なスコットランド人たちがさまざまな発明で産業を隆盛させる物語が海外でも読まれるようになった。
スコッツマン紙の文芸編集者を務めたスチュアート・ケリーは、ウォルター・スコットを「スコットランドの幻想的なイメージを創り出した功労者」と評している。スコットランド文化を変革した業績から、ウォルター・スコットは「北の魔法使い」という異名を取っている。
国王ジョージ4世が1822年8月にエディンバラを訪問した際、ウォルター・スコットは演劇上演の司会者に任命された。その前年の1821年にロンドンで開催された国王の戴冠式も、ウォルター・スコットに強い印象を与えていた。
この戴冠式は、有名なナポレオンの戴冠式を再現するような内容に加え、さらに豪華な儀式や伝統も演出したスペクタクルであった。国王はエディンバラで1,358.18ポンド(2024年現在の価値で約4200万円)もするきらびやかなキルトを纏ってパレードに繰り出した。古都の街は、華やかなバグパイプの音色で溢れかえったという。
この祝祭は2週間も続き、さまざまな氏族の代表が真新しいタータンチェックの正装で街を行進した。ウォルター・スコットはこのイベントを監修し、スコットランド人たちの振る舞いを指南した「エチケットブック」を一般市民に配布している。その結果として、ハイランド人もローランド人もイングランド王に忠誠を誓うようになり、共に近代的なスコットランド人としてのアイデンティティ確立が成し遂げられた。
国王の船がリース港に停泊している間、イングランドとウイスキーの未来を決める種がまかれていた。それは国王の嗜好の変化である。
ジョージ4世は、1821年のアイルランド訪問中にアイリッシュウィスキーパンチを試飲し、さらにはチェリーブランデーも好んでいた。だがここにきてスコッチウイスキーを気に入り、その味わいを試してみたいと熱望するようになった。
そこでウォルター・スコットは、グレンリベット地区で密造されていたウイスキーを入手。グレンリベット地区では、1820年代初頭に200軒以上の蒸溜器が未登録のまま稼働していたという。
国王はスコットランドの国民的詩人であるウォルター・スコットの健康を祝して乾杯し、用意されたウイスキートディを飲んだものと思われる。さらに20年後には、ジョージの姪であるヴィクトリア女王が、ウイスキーを英国の正統な飲み物と認定した。
ウイスキーを支持したヴィクトリア女王
ヴィクトリア女王は1838年の戴冠式以来、一貫してウイスキーの愛飲家であった。スコットランドのハイランド地方にも魅了され、1842年には「世界で最も素晴らしい国」と称えている。
女王はバルモラル城をはじめとするスコットランドの不動産を入手し、スコットランドの習慣や工芸品を取り入れ、スコッチウイスキーをファッショナブルな飲み物としてイングランドに紹介した。在位中の1837年には、グレニュリー蒸溜所を「女王陛下の蒸溜所」に指定している。
ヴィクトリア女王の叔父にあたるウィリアム4世は、1833年にブラックラ蒸溜所の「キングス・オウン・ウイスキー」王室御用達(ロイヤルワラント)に指定している。この栄誉に浴した他の蒸溜所には、1848年のロッホナガー蒸溜所、1892年のニューリー蒸溜所(アイルランド)、1893年のデュワーズ、1895年のバランタインがある。
また1843年には食料品店のシーバス・ブラザーズに王室御用達の許可が与えられ、1860年代には同社のウイスキーであるグレンディー蒸溜所とストラスアーン蒸溜所も同様の栄誉を受けた。
イングランドの上流階級は、この時代から王室の人々にならってスコットランドの土地を買い、狩猟や釣りなどを楽しむようになった。すると今度は、ウイスキーが屋外で飲む粋な飲み物としてもてはやされる。貴族たちがイングランドに持ち帰ったウイスキーは、たちまちブランデー、ラム、シェリーの代わりに自宅やバーでも楽しまれるようになった。
ウイスキーはロンドンで評判を上げ、風味豊かで手頃なブラウンスピリッツとして受け入れられるようになった。セルツァー社が発明したソーダサイフォンを使い、炭酸水を加えて飲むのが新しいウイスキーの楽しみ方として広まった。
やがてそんな上流階級の習慣を中流階級が模倣し、後年にはもっと安価なブレンデッドウイスキーが売り出される。こうして労働者階級もウイスキーを愉しむようになっていくのである。
(つづく)