キルホーマンの次章が始まる【前半/全2回】
文:WMJ
今から20年ほど前、ウイスキーの聖地と呼ばれるアイラ島で124年ぶりに新しい蒸溜所が建設されようとしていた。蒸溜所の名前はキルホーマン。創設者はアントニー・ウィルズだ。
離島のアイラにあって、さらにアクセスが不便な最西部のリンズ半島。敷地内の農場で大麦を栽培し、昔ながらのフロアモルティングを実践する。発酵にも通常の倍の時間をかけ、スコットランド最小のスチルでスピリッツをつくる。
懐古主義にも思える事業計画は、多くの人を戸惑わせた。当時はまだ業界が長い低迷期の中にあり、ウイスキーには高齢男性が好む時代遅れのお酒というイメージもあった。そんな時代に、21世紀らしいテクノロジーや生産効率をあえて遠ざけ、前時代的なファームディスティラリーに回帰しようというのである。
キルホーマン蒸溜所が、アントニーの無謀な情熱の産物であると考える人も少なくなかった。だがその後10年のうちに世界的なウイスキーブームが到来し、手づくりとテロワールにこだわったキルホーマンはクラフトウイスキーの先駆者となる。あらためて現代から振り返ると、アントニーの事業はタイミングもアプローチも完璧だった。
アントニー・ウィルズには、創業の時点で商機が見えていたのか。三男のピーター・ウィルズが答える。
「父が独立系ボトラーを始めた90年代は、ウイスキー人気の低迷期。スコットランド中の蒸溜所が、樽入りの原酒を気安く売ってくれました。それが90年代後半から2000年代前半にかけて、ウイスキーの販売量が徐々に増え始めます。するとメーカー各社は弱小ボトラーへの原酒販売を渋るようになったんです」
自分で売るウイスキーがなくなったアントニーは、増えつつある需要と供給側のウイスキーにギャップを見出す。大量生産の有名ブランドのみが席巻する市場だからこそ、あえて非効率な伝統手法に回帰したシングルモルトがニッチな市場を作れるのではないか。ボトラー事業の利益をすべて注ぎ込み、チャレンジは始まった。
ラグビー観戦に出かけて製麦棟を焼失
ピーター・ウィルズのウイスキー人生は、わずか15歳で始まった。父のアントニーが突然「アイラで蒸溜所を建設する」と宣言し、スコットランド西岸から家族全員で引っ越し。ウイスキーづくりの知識などないが、家族総出で壁を塗ったりする作業は楽しかったという。
蒸溜所は2005年に完成し、スピリッツ製造が始まる。だがウイスキーは熟成に何年もかかるので、当面は売るものもない。学校にニューメイクスピリッツを持ち込み、級友と飲んで悪ふざけをする日々。だが父が全財産を投じた蒸溜所で、早々に大事件が起こる。フロアモルティングをする製麦棟で、ピーターが火事を出してしまったのだ。
「火の管理を言いつけられた兄と私が、2人でラグビー観戦に出かけてしまいました。交代で様子を見に戻ればいいと甘く考えていましたが、父から携帯電話で呼び出し。帰ってみると、キルンに火柱が立ってしました」
資金が底をついた時期でもあったため、全焼した製麦棟の再建には9ヶ月もかかった。その間はフロアモルティングもできず、アントニーは失望したという。息子たちも不注意だったが、無煙炭で麦芽を乾かそうと考えたアントニーのミスでもあった。よく考えていれば防げたことだが、何しろ経験がなかった。
「あの一件があったから、父は私を生産部門ではなくマーケティング担当にしたのかもしれませんね」
ピーターは学生時代から蒸溜所の雑務を手伝うようになる。長い休みには、モルティング、ボトリング、カフェ、ビジター対応などで毎日のように働いた。
「事業を始めてから、完全に資金が尽きることが何度かありました。父もアイラでウイスキーをつくる難しさがようやくわかったようです。僻地で輸送コストはかかるし、気候は厳しいし、初期投資が莫大だし、熟成に時間がかかる。そもそも市場参入の障壁が高い。こんな商売はやるもんじゃないなと」
それでもピーターが大学を卒業した2009年に、キルホーマンは3年熟成のウイスキーを発売する。それまではウイスキーをつくるだけだったが、突然ウイスキーの販売という仕事ができた。事業をしているのはアントニーだけ。当然マーケティングやセールスの担当者もいなかった。
「いきなり私がウイスキーの宣伝と販売を任されました。バーや小売店やウイスキーイベントへ出かけるようになり、徐々に人の輪が広がっていきます。まず親しくなったのは、私たちと同じように新しいウイスキーづくりを始めた人たち。兄たちもアイラの酒類業界で働いていましたが、私が楽しそうに働いているのを見て家業に帰ってきました」
(つづく)
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