スペイ川畔の森に、ひっそりと佇むタムデュー蒸溜所。無名だった蒸溜所が、シェリー樽熟成の代名詞となるまでの歴史をたどる2回シリーズ。

文:ガヴィン・スミス

 

プレミアムなシェリー樽熟成のシングルモルトウイスキーとして、スコットランド屈指の評価を確立しているタムデュー蒸溜所。だがもともとの成り立ちは、ブレンデッドウイスキーの人気銘柄を支えるバルク原酒のメーカーだった。

そもそもビクトリア朝時代に巻き起こったスコッチブレンデッドウイスキーのブームは、タムデューと同じような蒸溜所をスペイサイドでも数多く生み出している。タムデューのモルト原酒は、1世紀以上にわたってフェイマスグラウスなどのブレンデッドウイスキーに使用されてきた。

19世紀のウイスキーブームによって、スペイサイド各地に蒸溜所が建設された。タムデュー蒸溜所には、古いダルベアリー駅の駅舎が遺されている。

ウイスキー人気が拡大した19世紀終盤に、スコットランドでは33軒の蒸溜所が新しく創設された。そのうち21軒がスペイサイドにあるという事実は特筆に値するだろう。

これほど多くの蒸溜所がスペイサイドに集中した理由は、当時のブレンダーたちが好んだ香味のスタイルに合った酒質が得られるという判断からであろう。しかしそれだけではなく、スコットランド北東部の肥沃な大地が高品質な大麦モルトの供給地として優れており、さらには清冽な水や豊富なピートにも恵まれていたからだ。それに加えて石炭を運ぶ鉄道網も発達しており、同じ路線で熟成済みの樽原酒を輸送するのにも便利な地域がスペイサイドだった。

マイケル・モスとジョン・ヒュームが、重要な記録である『スコッチウイスキーの誕生』 (1981年刊、原題『The Making of Scotch Whisky 』)で次のように記している。

「1890年代までに、スペイサイド地域では2つの鉄道会社が運営されていた。ハイランド社とグレート・ノース・オブ・スコットランド社は、どちらも効率的に業績を上げており、取り扱う貨物量をさらに増やそうと努力しているところだった。当時、多くの蒸溜所には鉄道の本線につながる側線が引かれていた。グレート・ノース・オブ・スコットランド社が運行していたキースとボートオブガーテンを結ぶ路線には、ロセス経由でエルギンまで伸びる支線があった。この沿線にあるたくさんの新しい蒸溜所が、鉄道を輸送に使用していた。また本線から離れた場所にある蒸溜所でも、専用の側線や駅まで用意されていることもあった」
 

19世紀のウイスキーブームで誕生

 
タムデュー蒸溜所は、スペイ川のすぐ北を流れるノッカンドゥ川のほとりに建てられた。この建設地もまた、当時の鉄道網へのアクセスの良さを念頭にして選ばれた場所だ。タムデュー蒸溜所は、ストラススペイ鉄道のダルベアリー駅から伸びる支線上にあった。

このストラススペイ鉄道は1899年7月に開業し、ダルベアリー駅は1905年5月に改名されてノッカンドゥ駅になった。改名の理由は、スコットランド南西部にある同名のダルベアリー駅と区別するためである。1965年に鉄道が廃止されると、ノッカンドゥ駅の建物はそのまま保全され、タムデュー蒸溜所のビジターセンターとして数年間使用された。

タムデュー蒸溜所には、自前の製麦所と樽工房がある。スコッチ業界を支えてきた生産量はスペイサイドの誇りだ。

タムデュー蒸溜所は、大手ブレンデッドウイスキーメーカーへの原酒供給工場として1896~1897年に建設された。もともとの事業主体は、タムデュー・ディスティラリー・カンパニー。ハイランド・ディスティラーズ・カンパニーの社長だったウィリアム・グラントが、15社のパートナー企業から19,200英ポンド(現在の価値で2000万英ポンド、日本円で約30億円)を調達して建設費と設備費に充てた。

建築設計を担当したチャールズ・ドイグは、スコットランドの伝統的な蒸溜所を数え切れないほど設計したエルギン出身の建築家だ。ウイスキー評論家のさきがけとして名高いアルフレッド・バーナードは、1898年の時点でタムデューが「おそらく当代もっとも効率的な設計の蒸溜所」であると書いている。

最初の蒸溜は1897年7月21日におこなわれ、その量は純アルコール換算で64ガロン(290リッター)。開業後しばらくは水源の権利をめぐる紛争もあったが、1898年6月までに214,476ガロン(972,000リッター)のスピリッツを生産するようになった。その1898年のうちに、ハイランド・ディスティラーズ社がタムデュー蒸溜所を買収している。

タムデューという名前は、「黒い丘」を意味するゲール語だ。当時のハイランド・ディスティラーズ社は、ちょうどグレンロセス蒸溜所が火災によって大量の原酒を失ってしまったこともあり、それを埋め合わせるブレンデッドウイスキー用のスピリッツを生産したいと考えていた。

だがブレンデッド・スコッチウイスキーのブームが去って約12年後、タムデューは1911〜1913年の間に休業を強いられる。さらにはスコッチウイスキーの人気が過去最低レベルまで落ちた1928〜1948年の20年間も、長期間にわたる休業を経験した。

蒸溜所が再開して1年後、フロアモルティングを廃止してサラディン式モルティングが採用された。コンクリートでできた縦長の大きなボックスに大麦を入れ、床に空いた穴から空気を送って撹拌させる方式だ。この一貫した撹拌をコンピューター制御で機械化すると、現代の一般的なモルティング方式になる。

つまりタムデュー蒸溜所は、ウイスキーづくりの近代化を先駆けた存在だった。
(つづく)