バルコネス蒸溜所とテキサスの仲間たち
アメリカのクラフトウイスキーブームで注目されるテキサス州ウェイコの「バルコネス」。あばら家のような環境からスタートした、驚くほど人間的なウイスキーづくりを訪ねる。
文:ダヴィン・デカーゴモー
ポケットで携帯電話が震えている。テキストメッセージだ。レンタカーは準備OK。ウィントンが手荷物受取場のE31レーンで待っている。英国から向かっているローラ・フォスターは数時間遅れで、コリン・ハンプデンホワイトやエミリー・ハリスも一緒だ。ロッキー山脈の上空が大荒れなので、フレッド・ミニックがダラスに着くのもだいぶ先になるだろう。
ウィンストンと私は、レストラン「ミディア」のバーでカクテルを飲みながら待っていた。カクテルのベースは、レイカンペロのメスカル。店の庭には、石膏型から造った愛らしいブロンズ作品『パストラル・ドリーマー(田園の夢想家)』が置いてある。作者は陶芸の学位を持つオクラホマ州の彫刻家、デービッド・フェルプス。オクラホマ州出身の彫刻家といえば、ドン・ボーナムもそうだった。1960年代、繊維ガラスで造った女性の身体をオートバイに変身させたアーティストだ。フェルプスはアートで儲け、ボーナムはプレイボーイの夢を描いた。ダラスはパブリックアートの宝庫であるらしい。
やがて英国のライター仲間たちが到着。ウィンストンは我々をプレイノまで送り届け、いまだ機上の人であるフレッドを迎えに飛行場へ戻る。
打ちっぱなしのセメントとベニヤ板でできたホテル「ナイロプレイノ」のインテリアは工業的で、スチームテーブルの朝食はまるで監獄のようだった。だが私はトリップアドバイザーで5つ星に評価する。5つ星評価の宿泊者はすでに600人もいた。このホテルはフェルプスよりもボーナム的。つまり正統派の佇まいがあるのだ。
ウィンストン・エドワーズは、バルコネス蒸溜所のブランドアンバサダーである。生まれも育ちもテキサスで、余計なおべんちゃらは一言もない。彼のウイスキーもまたしかり。ウィンストンがまず紹介してくれたのは、蒸溜所を取り巻く仲間たちだった。
持つべきものは友達
ダラス到着の翌朝、我々はオクラホマとの州境から約20分のテキサス州シャーマンにいた。携帯電話のエリアコードは903である。招かれた「903ブリュワーズ」のブランドアンバサダー、ブリタニー・ラフォーレットとは昨夜レストラン「ウィスキーケイク」で知り合ったばかり。グリーントマトのフライ、ミックス野菜のロースト、店名の由来でもあるウイスキーケーキで有名な店だ。
ブリタニーは笑い上戸で、自分で話しながら大笑いしているようなタイプ。彼女がたっぷりと1パイントのビールを注いでくれる。903の定番銘柄「サスクワッチ」は、リッチなインペリアルミルクスタウトだ。「粗悪な樽を売ってくる業者もいるから、友達が頼りなんだ」とぼやくのは、醸造責任者のジェレミー・ロバーツ。彼は微笑みながら、バルコネスが提供した容量5ガロンのバレルに両手を置く。「サスクワッチ」は、この樽で熟成されてできるのだ。
次の予定があるので、903の仲間たちにいとまを告げる。向かう先は、レンタカーで15分ほどのテキサス州デニソン。ロバート・リカリッシュとジョナサン・リカリッシュが待つ、アイアンルートリパブリック蒸溜所だ。話によると、デニソンのブドウの木は根を荒らすアブラムシ科の害虫に耐性があり、おかげで19世紀にフランスのコニャック地方のブドウを丸ごと救った。そんな歴史から「鋼鉄の根(アイアンルート)」という異名がついたのだという。
リカリッシュ兄弟がウイスキーづくりを志したのは2011年のこと。でも何から手を付けていいのかわからずに、まずバルコネスを訪ねたのだとロバートが振り返る。
「ウェイコの町まで何度か足を運んだよ。やるべきことや、ノウハウのすべてを教えてもらったんだ」
バルコネスが何よりも大切にしている価値は、良き隣人であることらしい。
アイアンルートの製品ラインナップを驚きとともに味わう。まだ若いウイスキーではあるが、暑いテキサスの気候のおかげで熟成期間が短縮され、フレーバーも短期間で獲得できる。この気候を活用して、1ヶ月ほどスピリッツを容器に入れたまま酸化させてから標準サイズのバレルに樽入れするのだという。コーンの伝統種である「ブラディブッチャー」やアンデス産のブルーデントコーンを原料に使用して、ウイスキーのフレーバーにも豊かな彩りを添えている。
ウィンストン、嘘だろ?
バルコネスを目指し、ダラスからハイウェイ35を南下してテキサス州ウェイコへ。ドラマチックな到着を演出しようと、ウィンストンは風光明媚な近隣の名所を見せながら回り道をする。やがて車は橋の下で停まった。そこには煉瓦屋みたいな低層建築が今にも崩れ落ちそうな様子で建っている。壁を見ると「バルコネス蒸溜所」の文字。おいウィンストン、嘘だろ?
嘘ではなかった。建物で出迎えてくれたのは、ザック・ピルグリムとジャレッド・ヒムステッド。バルコネスのヘッドディスティラーであるジャレッドが、錆びついたドアノブをひねる。ドアが大きく開くと、ガラクタのようなカオスの世界が見えた。ジャレッドがかつてのパートナーであるチップ・テイトとバルコネスを創業し、人が羨むようなブランドに育て上げた場所だ。成功を見届けたテイトは、残念ながら一身上の都合でこの場を去ることになった。
ハンドメイドの銅製ポットスチル2基が、同じくらい原始的な手造りのコンデンサーに荒削りな銅製のパイプで連結されている。こんな禁酒法時代の隠れ家みたいな設備で、これまで死人が出なかったのは奇跡のようにも思われた。
最初にウイスキーを買って応援してくれたのは、もちろん地元の人々だった。だがすぐ全米のウイスキーマニアたちの話題になり、金の匂いを嗅ぎつけた投資家たちもやってきた。ウイスキーの評判や味わいが気に入った投資家も、ネズミ小屋みたいな環境はお気に召さなかったようだ。そんなわけで、最初の融資である450万ドルには条件が付いていた。この17番街のあばら家を出て、ここから北西に6ブロック先の11番街に蒸溜所を移転させるという約束である。
新しい設備でもスタイルは不変
新しい蒸溜所の外見は、旧工場とまったく異なる。だが生産するスピリッツは、これまでと同様の品質になるように設計された。バルコネスがファンを魅了したのは、ウイスキーそのものだったからだ。だが生産拡大は容易な仕事ではない。フォーサイス社のエンジニアたちは、ずんぐりとした225ガロンのスチル2基から延びるラインアームの効果を再現するのに苦労した。結局はスピリッツの蒸気を銅製のコンデンサーに送り込む前に4箇所で進路を変えるコイルを加えたのである。
「新しい蒸溜所のボトルのほうが、古い蒸溜所のよりずっと美味しいね」と感想を述べる者がいれば、ジャレッドは「いや、そのボトルには古い蒸溜所の原酒も使っているよ。ブレンディングも進化しているんだ」と応じる。蒸溜所設立当時は、ジャレッドもブレンディングについて深く考えたことがなかったという。
小樽で貯蔵すれば、ウイスキーの熟成が早い。そんな話を聞いて小樽を用意したが、いったいどれくらいの量を樽詰めすればいいのかわからなかった。5ガロン樽10本で、53ガロンの標準的なバーボンバレルとほぼ同量のウイスキーが熟成できる。だが樽造りや樽詰めの労力は10倍だ。それだけでなく、それぞれの樽の特性が異なるため、ブレンドの組み合わせを決めるのにも10倍の手間がかかる。結局は小樽を諦めて、好みのスタンダードサイズに絞ることにした。
「でもウイスキーはいずれ変わっていく運命にあるんだ。スチルもコンデンサーも新調したのだから」
多額の投資で、バルコネスが商業主義に走ると懸念したファンもいたはずだ。だがもう安心していいだろう。バルコネスの品質は、1,400万ドルを投じた新しい蒸溜所でもまったく変わっていない。ジャレッドの目標は、既存のウイスキー愛好家を楽しませることだけなのだ。
ジャレッドは、もともとベイラー大学で陶芸を学ぶためにウェイコにやってきた。だが田園の夢想家では飽き足らず、すぐに社会福祉事業に参加してホームレスの支援を始めた。
「橋の下で教会のサービスも提供したよ」と彼は思い出す。「隣に座っているのは、だいたい娼婦か麻薬中毒者だった」
ジャレッドとの語らいは、こんな逸話の連続である。だが驚く者など誰もいない。隣人を思いやる心こそが、ここバルコネスの信条であるからだ。