メキシコの蒸溜酒といえば、アガヴェを原料としたテキーラなどが主流。だが広大な国土では、世界屈指の風味豊かなコーンが栽培されている。メキシカンウイスキーの歴史を創始する未知の冒険を追った2回シリーズ。

文:ライザ・ワイスタック

 

もしイバン・サルダーニャがアガヴェに夢中になっていなければ、これからご紹介するメキシカンウイスキーの物語もだいぶ違ったものになっていたことだろう。イバンは、「アバソロ・アンセストラル・コーンウイスキー」の蒸溜責任者である。農業の技術をスピリッツづくりに活かす素晴らしい試みを進めてきたイバンにとって、メキシコでのウイスキーづくりは長大な歴史の第1章に過ぎない。

高度な生産技術のによってスピリッツの風味を高める。これがスピリッツづくりの王道だ。しかしイバンにとって、その技術だけが重要なわけではない。スピリッツ蒸溜の本質は、荒々しい大自然の恵みを手懐けて、その風味や日々の仕事の喜びを一段上のレベルにまで引き上げる点にある。

メキシコの国民的穀物であるコーンの風味を慈しむように表現したウイスキー。「アバソロ」を手掛けたのは、アガヴェの蒸溜酒を専門としてきたイバン・サルダーニャだ。

仰々しく聞こえるかもしれないが、それがイバンの目指すゴールである。凝りすぎたセールストークを始めるつもりはない。科学者であるイバンとしては、それが当然の姿勢なのだ。実験室は、広大なメキシコの大地に広がっているのだとイバン自身が語る。

「私がアガヴェに夢中なのは、この植物からスピリッツにフレーバーが授けられる仕組みや科学について、しっかり理解したいと切実に願っているからです。スピリッツの中では、特に透明なホワイトスピリッツが好き。なぜなら原材料の魂をとらえて、スピリッツの中で表現させた特別な産品だから」

そう語るイバンには、品質を追求する通常の技術者ともはっきり異なった哲学がある。

「これはもちろん植物生物学のアプローチ。アルコールの生産は、農業の冒険だと思っています。お酒のプロジェクトやブランドは、農家とのパートナーシップから育てなければなりません。製品の背後にある農業の知識を正しく使うことができれば、その産地特有の素晴らしい物語を製品に加えることができるのです」

ハリスコ州出身のイバン・サルダーニャは、サセックス大学で進化生物学の博士号を取得している。それも専門はアガヴェの進化生物学だ。アガヴェの葉の代謝について研究し、二酸化炭素をある特定の糖類に変換させる仕組みについて調査してきた。

だから植物生理学の中でも、特に難解で深遠な分野について面白い話をたっぷりと聞かせてくれる。それもまるで、バーテンダーがメニューの生ビールの種類について説明するように、楽しくてわかりやすい物語にしてくれるのだ。

私のように非科学的な人間でも、極めて複雑な科学の一端が垣間見える。噛み砕くように説明してくれるイバンは、疑いようもない知識の深さに加え、何よりもアガヴェでつくるスピリッツへの愛と情熱に満ち溢れている。1時間以上に及んだ電話での会話には、庭でさえずる鳥たちのように心地よい響きがあった。そのおかげで、この私でも深夜にアガヴェが二酸化炭素を吸収するメカニズムについてほんの少しばかり理解を深めることができたのである。

そのメカニズムとは、植物が二酸化炭素を吸収する際に水分を失うことや、そのため日中にたくさんの水分を必要とすることに関連がある。だがきっと、それだけではない。しっかりと自分の頭で理解できるには、もっと長い時間をかけてイバンの話を聞く必要があるだろう。それまでは、テルペン(イソプレンを構成単位とする炭化水素)に関するイバンの説明だけで満足するとしよう。このテルペンは植物の自己防御反応によって生成される分子で、味わいや香りに影響を与えることがあるとわかっている。

 

アガヴェの研究者からコーンの虜に

 

2005年に博士課程の研究を終えたイバンには、大きく2つの進路が開けていた。ポスドクとして大学に残って研究を続けるか、アガヴェに関する知識を実際の業界で活用するか。その業界とは、もちろんテキーラ業界のことである。第一線の研究者だった頃のイバンは、アルコール業界が退屈でつまらない世界だと思っていた。だが故郷メキシコのアガヴェ畑とともに生きるのも悪くはないと考えなおした。

コーンを原料としているが、アメリカンバーボンとは大きく一線を画す「アバソロ」。樽香を強調しすぎないように、熟成には使用済みの樽をトーストやチャーなしで使用している。

そして、イバンはメキシコシティ近郊にあるペルノ・リカールの研究開発部門で職を得る。そこは従業員87名のハイテクな研究所で、従業員の大半がエンジニアだった。イバンはリキュールのカルーアと、ペルノ・リカールが所有する数種類のテキーラに関わった。だがその間も、農家やアガベ畑と密接に結びついた少量生産のテキーラにずっと憧れていたのだという。

蒸溜に関する深い知識をフルに活かすため、イバンは2010年にカサ・ルンブレを設立した。ビジネスパートナーとなったのは、テキーラ・ミラグロの創設者であるモイセス・ギンディとダニエル・シュニーワイズである。このカサ・ルンブレは、メキシコ独自の知覚や文化的伝統を大切にしたドリンク生産に注力する会社だ。2011年にはメスカル「モンテロボス」、2013年には「アンチョ・レイエス・チリ・リキュール」を発売。後者のリキュールは、メキシコの特定の地域で栽培される唐辛子を原料にしたものである。

やがてイバン・サルダーニャは、コーンの世界の虜にもなっていく。コーンはメキシコの歴史文化と不可分の作物であり、古代マヤ文明の創生において主役となった穀物だ。そして6年間の研究を経て、2020年4月に「アバソロ」が発売された。折しもWHOが新型コロナウイルスを世界的なパンデミックに認定した数週間後というタイミングである。

タイミングは悪かった。しかしその時点で、あまりも大きな資本と時間が開発に投入されていたため、発売までの予定を変更するつもりはなかったようだ。ありがたいことに、スピリッツの品質に精通したソーシャルメディアがキャンペーンを手伝い、店舗の封鎖で自宅待機を余儀なくされているバーテンダーたちがじっくりと時間をかけて新商品を吟味してくれた。その結果、イバンがつくったメキシカンウイスキーは、当初から望んでいた評判を手にすることができたのである。
(つづく)