ダルモアの180年【第1回/全4回】
文:クリストファー・コーツ
北ハイランド、ロスシャーにあるアルネス村。1839年、ダルモア蒸溜所はこの地でアレクサンダー・マセソンによって創立された。アレクサンダー・マセソンは、マセソン・ジャーディン&カンパニーの代表として東アジアとの貿易をおこなっていた人物。日本にウイスキーを持ち込んだ最初の人物の一人とされている。
ダルモアは昨年末に創立180周年を祝ったばかりだ。スコットランド屈指のラグジュアリーなウイスキーブランドとして、その伝統に相応しい形でアニバーサリーを祝っている。昨年11月には3種類のデキャンタ入りウイスキー「ダルモア60年 180周年エディション」の発売を発表。中身は1951年6月7日に蒸溜され、2本のシェリー樽で熟成されてきたスピリッツだ。
記念すべきアニバーサリーという節目を飾る意義があるのはもちろんのこと、この特別商品はいわゆる「マッケンジー時代」最後の原酒を放出するという意味でも画期的なウイスキーである。ダルモアがウイスキーメーカーとして地位を確立し、20世紀半ばの成熟期にバトンを渡したのはこのマッケンジー時代であるからだ。
マッケンジー時代は、アレクサンダー・マセソンが蒸溜所を去った後に始まった。彼が蒸溜所の運営を任せた賃借人たちが、ウイスキーづくりで成功を収めることができなかったため撤退したのである。だがそんな不毛な歴史に終止符を打ったのがアンドリュー・マッケンジーだ。1867年10月よりまだ当時24歳という若さでダルモアの設備を引き継ぎ、1868年1月28日より自らの運営でウイスキーの生産を開始した。現在のようなシングルモルトスコッチウイスキーとしてのダルモアは、この時にスタートしたのである。
アンドリューは弟のチャールズも招き入れ、マッケンジー・ブラザーズ社を設立。当時はまだ珍しかった「セルフウイスキー」(現代のシングルモルト)に注力してダルモアを売り出し始めた。ブレンデッドウイスキーのメーカーにスピリッツを売るモルトウイスキーメーカーが多数派になりはじめていた頃なので、この方針は時代の流れに逆らう判断だったといえる。
シェリー樽熟成の伝統を創始したマッケンジー兄弟
ダルモアのマスターブレンダーであるリチャード・パターソンによると、 マッケンジー兄弟は他社に先駆けてウイスキーの樽熟成に乗り出した野心家でもあったようだ。当時スコットランドのハイランド地方では、主に熟成していないスピリッツが日常的に飲まれていた。リチャード・パターソンが説明する。
「兄弟がやりたかったのは、何よりもニュースピリッツを販売する習慣を脱却すること。そこでアンドリューが、初めて樽で熟成した商品を生産しようと決断しました。これからのウイスキーは、10年、20年、30年という歳月をかけて熟成するのだと公言したのです。誰も経験のないことなので、周囲の人々はアンドリューの気が触れたのではないかと思いました。当時みんなが飲んでいたのは、熟成されていないスピリッツか、せいぜい3年熟成のウイスキーだけでしたから」
マッケンジー兄弟は1874年に蒸溜所の設備を強化し、生産量を倍増させた。アレクサンダー・マセソンが東アジアに広げたビジネス網も手伝って、ダルモアの名は極東やオーストラリアでも知られるようになっていた。実際に、ダルモアはオーストラリアで初めて販売されたシングルモルトスコッチウイスキーであると言われている。
やがて兄弟は、1891年に蒸溜所の権利をすべて買い取った。手中に入れた権利の中には、関連する港の埠頭や農場も含まれている。この間に特筆すべきは、マッケンジー兄弟がシェリー樽で熟成の実験を続けていたことだ。
シェリー樽熟成は当時から高品質なウイスキーの代名詞であり、現在もダルモアのトレードマークといえる特長である。記録を調べると、マッケンジー兄弟は1887年にニューメイクスピリッツの販売を終了している。これが明確な戦略にもとづいたものなのか、需要の減少に伴うものだったのかはわからない。もしかしたら、貿易が難しくなっていくこの時代に、ずっと実験を続けてきたシェリー樽熟成の原酒が余剰となった可能性もある。
(つづく)