他社に先駆けてシングルモルトウイスキーに注力し、シェリー樽熟成の伝統も築いてきたダルモア。マッケンジー時代を振り返ると、現代のスコッチウイスキーにつながるスペインとの関係が見えてくる。

文:クリストファー・コーツ

 

19世紀の後半に、マッケンジー兄弟は蒸溜所でアルフレッド・バーナードの訪問を受けている。ウイスキー ライターの元祖ともいわれ、現在も貴重な資料である『英国のウイスキー 蒸溜所』(1887年刊)を著した人物だ。

この著書の中で、バーナードはダルモア蒸溜所の設備について描写している。それもフェインツレシーバーやウォッシュチャージャーの配置についてわかるほどの詳細さだ。説明によると、蒸溜所は良質な大麦が栽培できる地域の中心にあり、鉄道で輸送しやすいように専用の引込線まで配備していた。そして良質なピートがふんだんに採掘できる場所にも近い。ピートに関しては別の箇所でもキルンでの製麦に仕様している事実を説明しており、このことから当時のダルモアは少なくともある程度まではピートの効いたスモーキーな味わいであったのであろうと推察される。

19世紀のウイスキーブームで増産に踏み切り、樽熟成のノウハウも進化させたダルモア。ロンドン市場への進出を機に、ピート香を控えめにした可能性も指摘されている。

アルフレッド・バーナードの記録によると、当時の年間生産量は80,000英ガロン。リッター換算にして364,000L弱だ。これがビクトリア朝時代の蒸溜所建設ブームなども経て、1895年までに年間271,694英ガロン(1230,000L)にまで大きく増産している。当時の蒸溜所では、32人の従業員が働いていた。

この頃までに、シェリー業界とスコッチウイスキー業界の間には親密な相互依存関係が確立されていた。シェリー業界が輸送用に使う樽を、ウイスキー業界が大々的に熟成用として使用するという関係である。興味深いことに、当時からシェリーを商っていたマッケンジー&カンパニーという会社が存在した(関連会社にはマッケンジー&ドリスコル・オブ・オポートもある)。

このマッケンジーが、ダルモアのマッケンジー兄弟と縁戚関係にあったかどうかは定かではない。ただそんな問題は別にしても、マッケンジー・ブラザーズがダルモアのビジネスを展開していた時期に、同胞のスコットランド人たちが大勢ヘレスでシェリーの生産や運営に携わっていたことは間違いない(ジョージ・サンドマン&カンパニー、ゴードン&カンパニーなどが有名だ)。

このようなスコットランド人たちから、マッケンジー兄弟も高品質な樽を十分に調達できたであろうことは想像に難くない。リチャード・パターソンは語る。

「マッケンジー家がヘレスに進出したのを機に、アンドリュー・マッケンジーはシェリー樽の選定を始めました。彼はすぐに樽材によって香りやウイスキーへの影響が異なることに気づきます。このような樽の選定が、いわゆるマッケンジー時代にも続けられていたはず。それをやがて私も学ぶことになり、現在もなお伝統として生き続けているということなのでしょう」

 

ロンドン市場進出のためにフレーバーを変更

 

1880年代になると、マッケンジー兄弟はダルモアブランドをロンドンで売り出そうと決意する。そしてどうやらこの時期に、イングランド人たちの嗜好にあわせて、ダルモアのスピリッツにちょっとした変更を加えたのではないかと考えられている。

さまざまな人が推測するところによると、この変更はピート香の影響を減らすためのものであった可能性がある。そうではなくて、ただ蒸溜時にスチルを加熱する方法を変えただけだと考える人もいる。何を変えたのか定かではないが、とにかくその変更はうまくいって、消費者には好意的に受け取られたようだ。グラスゴーにあった当時の代理店から、こんな感謝のビジネスレターが届いている。

シェリーが大好きな英国人のために、スペインから樽で輸送されていたシェリー。スコッチウイスキー業界は、ヘレスにあるボデガと密接に取引をして熟成用のシェリー樽を確保した。

「ダルモアの品質には、とても感銘を受けています。最高級のハイランド産ウイスキーと呼ばれるブランド中にあっても、明確に独自の個性を表現していると思います。極めてリッチで、甘く、繊細な風味があり、そして全体としてパワフルなウイスキーだと実感しています」

このような高評価の背景には、当時のダルモアの価格も影響を与えていたはずだ。1880年時点のウイスキー相場を振り返ってみよう。ある資料の価格表によると、樽入れしたダルモアのニュースピリッツが1ガロンあたり4シリング1ペンス。ちなみに同じ価格表でもっとも高額なシングルモルトスコッチウイスキーは4シリング10ペンスのグレンリベットだ。マッカランはダルモアよりも2ペンス安い3シリング11ペンス(1シリングは12ペンスである)。もっとも安いのがキャンベルタウン産のウイスキーで、軒並み2シリング9ペンスから3シリング1ペンスといった具合である(リドリー&カンパニー『ワイン&スピリッツ貿易回覧』1885年3月12日号)。

さまざまな浮き沈みはあったが、マッケンジー兄弟の子孫たちは20世紀もダルモアのビジネスを維持していた。 1960年5月に、当時の会社であるマッケンジー・ブラザーズ・ダルモア社が、当時の筆頭顧客であったブレンディング会社のホワイト&マッカイに買収される。このとき、ヘクター・アンドリュー・コートニー(HAC)・マッケンジー大佐の財産管理によって、ダルモア蒸溜所が新しいダルモア・ホワイト&マッカイ社の傘下に入って株式も公開された。

その後、いくつかの合併、売却、買収などを乗り越えて、ダルモア蒸溜所は今でもホワイト&マッカイが保有している。その親会社はフィリピンの飲料複合企業体であるエンペラドール・ディスティラーズだ。もう家族経営ではなくなったダルモアだが、HAC・マッケンジーは引き続き経営陣の一角に留まり、リチャード・パターソンが初めて蒸溜所を訪ねた1972年にもそこにいた。
(つづく)