ジャック・ダニエルにウイスキーづくりを教えた黒人ディスティラー【前半/全2回】

November 17, 2017

ジャック・ダニエルの創設期に活躍したウイスキーづくりの名人は、アフリカにルーツのある元奴隷だった。ジャックダニエル初代マスターディスティラー、ニアレスト・グリーンの知られざる物語。

文:ジム・レゲット

 

マーク・トウェインの名作で、いたずらっ子のトム・ソーヤーはポリー伯母さんにフェンスのペンキ塗りを命じられて悪知恵を働かせいていた。ちょうど同じ時代、12歳のジャスパー・ニュートン・ダニエルはすでにウイスキーづくりの手ほどきを受けていた。教えてくれたのは、ある黒人の蒸溜家だった。

アメリカの奴隷時代(1619〜1865年)、マーク・トウェインとジャック・ダニエルはどちらも世相に抗って奴隷制に反対した。マーク・トウェインは1910年に、ジャック・ダニエルは翌1911年にこの世を去っている。別々の場所で同時代を生きた2人だが、意外なほどに共通点は多い。

テネシー州は、もっとも古い奴隷州のひとつだった。忌まわしい歴史は1619年にさかのぼる。オランダ人たちが、アフリカで囚えたアフリカ人たちを英領バージニア州ジェームズタウンに連れてきた。儲けになるタバコ栽培で使役するためである。

その後、各地の港町で奴隷の競売がおこなわれるようになった。囚われた不運な者たちの職人技を売り手が喧伝する。カリブ海の島で砂糖工場に務め、ラム酒の蒸溜技術に長けた者は高値で売れたという。

初期のスピリッツ蒸溜所の多くも、奴隷労働の恩恵に預かった。労働といっても、一日中樽を転がして運んだり、ボタニカルを採集したりといった力仕事ばかりではない。歴史家たちもあまり多くを語っていないが、アフリカから連行された奴隷のなかに多くの熟練した蒸溜家がいたことは確かである。

アメリカ合衆国初代大統領のジョージ・ワシントンは、有力なウイスキー生産者としても知られていた。自身が建設したマウントバーノン蒸溜所では、6人の奴隷の力を借りて1799年に11,000ガロンのウイスキーを生産した記録が残っている。マウントバーノンは、当時のアメリカで最大の生産量を誇る蒸溜所であった。

「バーボンの父」として知られるエライジャ・クレイグも、32人の奴隷を所有していたことが当時の納税記録からわかっている。ケンタッキーの有名バーボンメーカーは、高度な技術を有する働き者の奴隷たちに力を借りてブランドを確立させてきた。調査を進めるにつれてわかってきた彼らの存在は、アメリカのウイスキー産業にとって「忘れられた屋台骨」ともいえるものだった。
 

知られざる歴史を紐解く

 
ニューヨークタイムズ紙のベストセラー作家であるファウン・ウィーバー(41歳)は、アフリカ系アメリカ人。投資家でもある彼女は、夫のキースとシンガポールへ旅行したとき、たまたま見つけた新聞記事に心を打たれた。

その記事は、テネシー州の奴隷だったニアレスト・グリーンが、若きジャック・ダニエルにテネシー随一のウイスキーをつくる方法を教えたいきさつを回想したものだった。何百軒もの農家が、自前のスチルで地元産のウイスキーをつくっていた時代のことである。

彼女の著作からこのいきさつを知った私は、居ても立ってもいられずにリンチバーグへと旅立った。リンチバーグには、創立151年のジャックダニエル蒸溜所がある。片道4時間、730kmを旅して、当のファウン・ウィーバーを探し出した。

ウイスキーマガジンの特派員が町にやってきたことを伝えようと、地元ラジオ局のNPRやテレビのトークショーがインタビューを申し込んでくる。あれこれ時間をとられるが、この地に来なくては何も始まらない。ジャック・ダニエルの少年時代について調べ上げ、彼のメンターであったニアレスト・グリーンの知られざる逸話を探し当てるのに、現地取材をおろそかにはできない。

午後遅くの日差しが、ひとときの涼しさを恵んでくれる時間。ファウンは調査で明らかになった数々の物語を情熱的に語ってくれた。ジャック・ダニエルのメンターであり、初代マスターディスティラーであったネイサン・”ニアレスト”・グリーンの逸話。そしてファウン自身が発売に関わったニアレスト・グリーンを称えるウイスキーのこと。このウイスキーは品質も素晴らしく、品評会でゴールドメダルを受賞した逸品である。

我々2人は、軒先のロッキングチェアにゆったりを腰をかけている。場所はリンチバーグの「トリーハウスB&B」 。ファウンが最近購入した物件で、まさに「風と共に去りぬ」の舞台のような建物だ。ここはジャック・ダニエルの甥であるレム・モトローと、 ジャック・ダニエルのマスターディスティラーを務めたレム・トリー、JD・トリーの2人が所有していた家でもある。ファウンが面白い裏話を教えてくれる。

「夫を説得するのは大変だったわ。黒人の夫婦が、妻の40歳の誕生日を祝うために『リンチ(私刑)』という言葉がついた町に旅行するということ自体が難関だったの。夫は『リンチバーグとか、そんな名前の場所には行きたくないよ!』って叫んでいたのよ」

(つづく)

 

 

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