阿蘇山麓に設立された久住蒸溜所。小規模ながらも本格的な設備は、オーナーが思い描いてきた夢の結晶だ。ステファン・ヴァン・エイケンが現地を訪問する2回シリーズ。

文・写真:ステファン・ヴァン・エイケン

 

ここ何年かの間、日本ではかつてないほどのスピードで新しいウイスキー蒸溜所が誕生してきた。初めてウイスキー生産に参入した企業の多くには、またとない時流に乗って新たな商機をつかもうとする意図も少なからずあったことだろう。

だが大分県の久住蒸溜所に限っていえば、そのような推測はまったく当てはまらない。実際のところ、取締役社長の宇戸田詳自さんが自前のウイスキー蒸溜所を設立しようと思いついた頃には、まだ現在のようなジャパニーズウイスキーの開業ブームを想像する由もなかった。

ウイスキー蒸溜所設立ブームの最中にオープンした久住蒸溜所。だがオーナーの宇戸田詳自さんにとっては、ウイスキーブームの以前から描いてきた夢の実現だった。

九州の中央部にある久住の町を目指し、曲がりくねった細い道を何時間もかけて走る。途中の景色がスコットランドのハイランドにそっくりで、ちょっと不思議な気分になった。ようやくたどり着いた久住蒸溜所は、鄙びた竹田市久住町にある。標高は約600m。ここは雄大な久住高原の一角だ。

蒸溜所に入ると、宇戸田詳自さんはちょうどフォークリフトを操縦しているところだった。発酵槽や蒸溜器に残った絞りかすを運び出し、地元の農家に肥料として届ける作業の最中だという。こんな小さな町の経営者には、デスクでくつろいでいる時間などないのだろう。

ウイスキー蒸溜所の建設に至った経緯を尋ねると、宇戸田さんは語り始めた。

「生まれも育ちも、ここ久住のあたりです。でも一度は町を出て、大学の農学部で学びました。初めてウイスキーの魅力に惹かれたのは大学時代の頃。学友たちとバーに行って、生まれてはじめてシングルモルトウイスキーを飲みました。たしかグレンフィディックだったと思いますが、その味わいの深さに驚いたんです」

だが当時のウイスキーには、洗練されたイメージなどまったくなかったと宇戸田さんは回想する。

「ウイスキーといえば、仕事帰りにスナックに行って、水割りでがぶ飲みするようなお酒という認識でしたから。でもシングルモルトウイスキーをゆっくり味わう喜びに目覚めてしまいました。私自身、お酒は弱いほうなのですが」

会社員として3年の月日を過ごした宇戸田さんは、2000年に久住へ帰ってくる。理由は家業の酒屋を手伝うためだ。それでも大分市まで足を伸ばして数軒のバーに通い、引き続き自分なりにウイスキーの味わいを研究するようになった。

生まれ故郷の久住で、いつか自分のウイスキー蒸溜所を設立したい。そんな夢が心に浮かぶようになった。だが当時の日本は、20年連続でウイスキーの消費量が減少し続けている最中だ。ウイスキー蒸溜所を設立するのは、およそ実現不可能な夢のようにも思えた。

 

運命を変えた肥土伊知郎との出会い

 

だが2004年の冬に、宇戸田さんは自分と同じ夢を見ている人物と出会う。それが肥土伊知郎さんだ。当時の肥土さんは、祖父の羽生蒸溜所でつくられた原酒のストックを買い戻したばかり。肥土家が東亜酒造の事業に失敗し、経営を引き継いだ新しいオーナーは課税対象となるウイスキー原酒の在庫を廃棄や再蒸留によって処分しようとしていた。

肥土さんは廃棄寸前の原酒を必死に救い出し、シングルモルト「羽生」を1本ずつ手売りしようとしていたのだと宇戸田さんは回想する。

家業の酒屋の他に、津崎商事を設立して始めたボトリング事業。だが2011年の「ウイスキートーク福岡」に出品したイチローズモルト「羽生」は、あまり注目されなかった。

「肥土さんに会ったのは、彼が自分でボトリングした最初の『羽生』を売り歩いていた頃。だいたいバー10軒を回って、1本売れればいいほうでした。買ってくれない人は、いつも同じような理由を口にしていました。まずは値段が高すぎること。それに風味が強すぎること。ウイスキーなんかスコッチでいいじゃないかという話です」

その少し後に、肥土さんは有名なカードシリーズを発売する。しかし反応は似たようなものだったという。

「バー100軒を回って、売れたのはたったの3ケースだと言っていました。でもその後、徐々に海外から注目されるようになり、首都圏での評価は変わっていきます。でも九州は違いました。ここは何と言っても焼酎王国。私の酒屋でイチローズモルトを売ろうとしても、『イチロー? 野球選手の?』みたいな反応ばかりでしたね」

バーテンダーの樋⼝⼀幸さんが「ウイスキートーク福岡」を立ち上げた2010年に、宇戸田詳自さんは有限会社津崎商事を設立して酒類事業の幅を広げた。主に「ウイスキートーク福岡」イベントで販売する特別ボトリングなどを取り扱うためだ。

「2011年に開催された第2回ウイスキートーク福岡のために、シングルカスクの『羽生』をボトリングしました。でも180本ほどあったボトルのうち、イベントで売れたのは3分の1ほど。残りを売り切るまで、その後1年半もかかりました」

翌2012年のエディションに選んだのは「羽生シングルカスクパンチョン」で、樽の大きさからボトル数は400本以上になった。こんな数は売り切れないだろうと宇戸田さんは考え、半分は海外販売に強いナンバーワンドリンクスに託した。

「それでも国内分を売り切るのに1年もかかりましたよ。ようやく2013年になって、私たちがボトリングしたシングルカスク『秩父』がイベントで完売しました。ちょうどジャパニーズウイスキーへの関心が急激に高まってきていた頃です」

どうやら潮目が変わったようだ。そう察知した宇戸田さんは、ちょうど中村大航という人も自分の蒸溜所を建てたがっているという噂を耳にした(後に静岡蒸溜所であると判明する)。自分と同じ夢を抱いている人が日本にいる。そんな事実が、宇戸田さんを大いに刺激した。

2015年になって、宇戸田さんは真剣に蒸溜所の設立を検討し始める。業界の人と会うたびにいろいろと相談するようになったが、大きく立ちはだかる壁が2つあった。そのひとつは、事業を始める資金がないこと。もうひとつは、ウイスキーづくりの経験がないことだ。そんな心配を肥土伊知郎さんにぶつけると、こんな答えが返ってきた。

「僕だって同じ境遇だった。だからその2つの壁は、蒸溜所の設立を諦める理由にはならないよ」

この言葉に勇気づけられ、宇戸田さんは心を決める。そして2016年末までに蒸溜を建設する一区画の土地を購入した。

「この場所には、1989年まで小早川酒造という酒蔵があったんです。酒蔵があったということは、いい水があるに違いない。きっと質も量も満足な水が手に入るだろうと期待しました。この推測は正しかったんです。ドリルで40メートルほど掘ったら、仕込み水にも冷却水にも使える豊富な水源が見つかりましたから」
(つづく)