ラベルを読む・7【誇り高きクラン 前半/全2回】

August 27, 2014

スコットランドの氏族を表す「クラン」をブランド名にするウイスキーは多い。ここでは改めて「クランとはなにか」を紐解いてみよう。

「クラン(clan:氏族)」という言葉は、キルトと言えば「タータン(格子柄)」を思い浮かべるように、スコットランドの歴史と切っても切れない関係にある。
もちろん、直ぐには納得できない、あるいは少なくともスコットランドに限らないと思うかもしれない。「氏族」としての意味合いでは多くの国に、多くの形で‘clanning(氏族形成)’が見られるからだ。

しかし語源を考えると、この言葉はアイルランド/スコットランドの歴史にしっかりと根差している。「clan」はゲール語で‘家族’を意味する「cland」と「clann」から派生しているのだ。だからこの記事では、中国や日本、ポーランド、イスラエル(WMJ註:それぞれかつては一定の名称や紋章をもった氏族が分割支配していたため)の「clan」は含めないことにしたい。まあ、もちろんウイスキーの話だから、ということもある。

スコットランドのクランは地域的な領主制に始まった。クランの首長は武装した市長のようなものと考えられ、自分の家族と村の住人を保護する存在だった。首長は、血縁関係のあるなしにかかわらず誰でも自分のクランに加えることができ、必ずとは言えないが往々にして広い土地を所有し、農場か城を持っていることもあった。クランのメンバーは、保護の見返りとして首長のために働き、戦った。

クランの歴史はキリスト誕生のはるか以前にさかのぼる。実際のところ、クランは地域社会の初期形態であり、そこでは首長が善悪を判定した。首長は議論の余地なくリーダー、判事と見なされ、彼に対するクランメンバーの忠誠心は言うまでもなかった。クランは徐々に重要性を増し、13世紀頃には特にスコットランドの独立戦争において、重要な存在になった。スコットランドの領主らだけでなく、イングランド、フランダース(現在のオランダ南部/ベルギー西部/フランス北部を含む地域)、スカンジナビアの領主たちも、なるべく広い土地を取って豊かになるチャンスと考えてそれぞれの縄張りに独自のクランを作った。

その後数世紀にわたり、主として首長が小地域を支配する形になったが、国家政府は概してこれを大目に見た。クラン同士が激しく戦うことを知っていたので、分割統治の原則に従ったわけだ。当時、隣人の家畜を盗むことは犯罪ではなく、名誉ある業績と見なされていた。

1688〜1746年の間、イングランド、アイルランド、スコットランドは絶え間なく戦っていた。その元になった衝突は、よくあるように宗教的な問題で、この場合はプロテスタントとローマン・カトリックの対立だった。
この間に発生した暴動や戦争は、カトリックであったために王位を追われたスコットランド王ジェームズ7世(イングランド王としてはジェームズ2世)の名前をとって、ジャコバイト(ジェームズ2世支持者という意味)蜂起としても知られている。
ジャコバイトはジェームズ2世の跡継ぎを復位させてスチュアート家の名誉を回復することを目指し、オランダから来て王位についたハノーバー家のオレンジ公ウィリアム(プロテスタントでジェームズ2世の甥。妻メアリーはジェームズ2世の娘)を追い出そうと戦った。

最後のジャコバイト蜂起は、ジェームズ2世の息子で「いとしのチャールズ王子」と呼ばれてスコットランドでは人気のあったチャールズ・エドワードが率いたが、1746年にカロデン近くの荒野でイングランド軍に惨敗。王位を得ようとして失敗したチャールズ王子はかろうじて欧州大陸に逃れ、その後二度とブリテン島に戻ることはなかった。伝説によれば、このときの逃亡を手伝ったフローラ・マクドナルドに彼がドランブイの最初のレシピを伝えたのだそうだ。

この悲劇的な戦いで多くのクランが死に絶え、クランの慣習も消え去った。イングランドはスコットランド人に武器の携帯とタータンの衣服の着用を禁じた。ゲール語は言語として禁止され、ハイランドの民は王位強奪者らに骨の髄までへこまされた。そして、最終的に一部の古いクランの首長たちはスコットランドの地主階級へと変容し、この変容に伴って地域社会の領主としての役割を失った。

【後半に続く】

過去の「ラベルを読む」シリーズはこちらから

カテゴリ: Archive, features, TOP, テクノロジー, 最新記事