100年以上も前に閉鎖された蒸溜所は、どんなモルトウイスキーをつくっていたのだろう。ザ・ロスト・ディスティラリー・カンパニーのプロジェクトは、時を超えた壮大なスケールの実験だ。

文:ガヴィン・スミス

 

会社の所在地は「ザ・グレート・スチュワード・オブ・スコットランズ・ダンフリース・ハウス(スコットランド大家令のダンフリースハウス)」。こんな住所からも、ザ・ロスト・ディスティラリー・カンパニーがかなり特別な事業をおこなっていることが推測できるだろう。事実、そのブレンディングは通常の常識を大きく逸脱している。

同社が取り組んでいるのは、はるか昔に閉鎖されてしまった蒸溜所のモルトウイスキーを再生しようという野心的な試みだ。設立したのは元ディアジオのスコット・ワトソンとブライアン・ウッズ。2012年にクルーシャル・ドリンクス社を設立し、ラムのポートフォリオを拡充しながら唯一無二のブレンデッドモルトウイスキーを生産すべく努力を重ねてきた。

ワトソンとウッズは共にエアシャーの出身で、地域産業の再活性化に貢献したいという思いからキルマーノックで事業を始めた。だが2016年からは、カムナック近郊のザ・グレート・スチュワード・オブ・スコットランズ・ダンフリース・ハウスに住所を移している。ここはスコットランドでも有数の格式を誇る大邸宅であり、2007年にウェールズ公チャールズの尽力によって荒廃を免れたエピソードもある。ザ・ロスト・ディスティラリー・カンパニーは本社機能をこの邸宅に置き、ビジターには魅惑的な「ウイスキー・ラウンジ」も公開している。

スコット・ワトソンが、会社創設のいきさつについて教えてくれた。

「ブライアンと僕は、20年くらい前に一緒に働いたことがありました。そのときから、本物のクラフトウイスキーを求める消費者と、実際のウイスキー市場との間に未開拓の分野があるとわかっていたのです。でもウイスキー市場が縮小して会社の統合が進むなか、そんなクラフトウイスキーを見つけるのがどんどん難しくなっていきました。20世紀のスコットランドでは100軒以上のウイスキー蒸溜所が廃業しましたが、これはまさに悲劇だったと思っています。ザ・ロスト・ディスティラリー・カンパニーは、かつて有名だったウイスキーと、そこで働いていた人たちの仕事の物語を取り戻すために生まれたのです」

実際に失われてしまったウイスキーを、一体どのようにして再生するのか。クルーシャル・ドリンクスのマーケティング部長を務めるニッキ・カミングが説明する。

「リサーチ開始前に、チームとして蒸溜所の主要な情報を確保する必要があります。蒸溜所が評判の良い高品質のモルトウイスキーをつくっていた証拠となる詳細な資料の存在があって、初めてその蒸溜所の伝統を保護する意義が生まれます。アーキビスト(記録研究者)が本格的な調査と分析を開始するのは、そのような資料の存在を確かめた後です」

社内のアーキビストが、あらゆる側面から蒸溜所の操業状況を調査する。その結果から、ウイスキー生産チームが必要とする十分な情報を供給し、失われたフレーバーのプロフィールを具現化する方法について議論を深めるのだとカミングは語る。

「議論がひとまず決着すると、適切なシングルモルト原酒の調達を開始します。調達先となるのは、現存するスコッチウイスキー蒸溜所の80%程度。失われた蒸溜所の商品を市場に送り出すための期間は、1銘柄で最長1年ほどかかりますね。生産中も記録調査の仕事は継続し、新しい発見や変更があれば商品に反映させます。このような変更の詳細は、ソーシャルメディアで公表していますよ」

 

過去のウイスキーを分析するための10項目

 

ザ・ロスト・ディスティラリー・カンパニーのチームは、過去のウイスキーに備わっていたと見られる特徴を下記の10項目から特定する。

時代:最後に蒸溜がおこなわれた年月日が極めて重要になる。生産のスタイルとプロセスは、あらゆる製造業と同じように時代を追って変化するものだ。例えば生産工程の機械化によって品質の均一性は増すようになった。また鉄道網の拡大によって新設される蒸溜所の規模が大型化歴史も考慮されなければならない。

場所:近隣の蒸溜所が、同じ水源や、大麦や、酵母を使用していた可能性は常にある。現存の蒸溜所の生産スタイルに、当時の工夫の名残りがあるかもしれない。そのような共通の特徴を、近隣の蒸溜所に見出すことも可能だ。

:スピリッツをつくる主原料のひとつは水。ボトリング時にアルコール度数を希釈する際にも使用される。軟水であるのか、硬水であるのか、またどのようなミネラルが含まれているのかを考慮する必要がある。

大麦:原料である大麦のタイプを特定する際に、もっとも重要な側面はフェノール類の含有量だ。大麦はどこで栽培されたのか。地元産だったのか。品種は何だったのか。アルコール収率はどこまで一定だったのかなどといった問題が考慮の対象になる。

酵母:サワードウで作ったパンの味は店ごとに異なる。パン屋のなかには、何十年も同じスターター(発酵種)を守っている店もある。このような事実からも、酵母がウイスキーづくりの工程で極めて重要な役割を果たし、最終的なウイスキーの味わいに影響を与えることがわかる。

ピート:原料の大麦モルトは、ピーテッドモルトだったのか、それともノンピートだったのか。そしてピートはどの程度の量が使用されていたのか。ピートは地元産だったのか。そのピートが、最終的な製品としてのウイスキーでどのように表現されたのかを分析する。

糖化槽:マッシュタン(糖化槽)の素材は何だったのか。蓋は付いていたのか、それとも開放型だったのか。温度はどのように管理されていたのか。水分を揮発させるような高温が、酵母の活動を阻害した可能性にも注目する。

発酵槽:ウォッシュバック(発酵槽)は、ほぼ例外なく柾目のダグラスファー材(ベイマツの一種)で作られていた。今でも木製の発酵槽を使用している蒸溜所はあるが、多くはステンレス製に変更された。ステンレス製の発酵槽が、ウイスキーに特殊な風味を授けることはない。

蒸溜器:スチル(蒸溜器)の形状とサイズは、スピリッツの方向性に甚大な影響を与える。例えば、小さくてずんぐりとした形状のスチルは銅とスピリッツの接触が多いため、よりヘビーで粘性の高い酒質になる。

樽材:スピリッツに蒸留された後、ウイスキーの貯蔵や輸送に使用された樽の材質は何だったのか。この樽材の影響は、最終的なウイスキーの風味に現れていたのか。ウイスキーを貯蔵する前、その樽には何が入っていたのか。これらの条件によって、ウイスキーの味わいは大きく変化することが予測できる。

 

科学的な検証から過去を再解釈

 

このような調査と研究は、久しく忘れ去られていた蒸溜所のウイスキーづくりに関する知識を大きく広げてくれる。だがオリジナルのウイスキーのサンプルがなく、似たような酵母株や大麦品種を使用してウイスキーをつくる現存の蒸溜所も失われている今、ザ・ロスト・ディスティラリー・カンパニーのウイスキーが「再生」というよりも「再解釈」と呼ぶべき成果に留まることは避けられない。同社も実際に出来上がったウイスキーを「はるか以前に閉鎖された蒸溜所のスタイルを採用した手づくりのウイスキー」と定義している。

実際のブレンディングを手がけているのはスコット・ワトソンだ。最初に「ストラスエデン」と「オークナギー」の2銘柄をリリースし、次いで「ガーストン」「ジェリコ/ベナヒー」「ロシット」「トウィーモア」「ダラルアン」が発売された。それぞれの銘柄でクラシック(10~12年熟成のウイスキーを43%でボトリング)、アーキビスト(15~18年熟成のウイスキーを46%でボトリング)、ビンテージ(25年以上熟成されたウイスキーを46%でボトリング)の3種類がある。ディスカバリー・セレクションから発売された最初の6商品をミニボトルに詰めたボックスセットも人気を博しているようだ。

もっとも新しいザ・ロスト・ディスティラリー・カンパニーのボトルは「ダラルアン」。キャンベルタウン地域のウイスキーをテーマにした初めての試みである。かつてキャンベルタウン周辺には34軒以上もの蒸溜所があり、アーガイルシャー港は隆盛を極めていた。それが現在はわずか3軒の蒸溜所を残すのみとなっているのだとスコット・ワトソンが歴史を振り返る。

「ダラルアンは当時から伝説的なウイスキーでした。残念ながら閉鎖されてしまいましたが、その理由は経営の失敗などではなく、ウイスキー業界全体の失速です。キャンベルタウンでは、不況の打撃を特に大きく受けてしまいました。極めて高く評価されていたモルトウイスキーなので、現代で再解釈されたブレンドも往時のエッセンスをうまく捉えていたら嬉しいですね」

ザ・ロスト・ディスティラリー・カンパニーの商品は数々の賞に輝き、現在は世界約50カ国で販売されている。リリース予定についてはまだ手の内を明かしていないが、独創的なアプローチによるブレンデッドモルトウイスキーが今後も注目を集めるのは間違いないだろう。

ロスト・ディスティラリー(失われた蒸溜所)一覧

ストラスエデン:オーチタームフティー(ファイフ、ローランド地方)、1829〜1936年
オークナギー:タリーメット(パースシャー、ハイランド地方)、1812〜1911年
ガーストン:ハルカーク(ケイスネス、ハイランド地方)、1796〜1882年
ジェリコ/ベナヒー:インズチ(アバディーンシャー、ハイランド地方)、1822〜1913年
ロシット:バリーグラント(アイラ島、アイラ地方)、1817〜1867年
トウィーモア:ダフタウン(バンフシャー、スペイサイド地方)、1898〜1931年
ダラルアン:キャンベルタウン(キャンベルタウン地方)、1825〜1925年