アイルランド各地でつくられ始めたスモーキーなウイスキー。その背景にあった知られざる歴史を紐解く2回シリーズ。

文:マーク・ジェニングス

 

アイリッシュウイスキーの「ジェムソン」にしてくれ。スモーク香のないスコッチウイスキーが飲みたいんだ(1975年の雑誌広告より)。

スモーキーな香味は、アイリッシュウイスキーに似合わない。あなたがそんな先入観を抱いてしまったとしても、非難されるべきことではないだろう。なにしろこの60年間にわたって、それが常識だと教えられてきたのだから。ジェムソン、ブッシュミルズ、パディは、もう何世代にもわたってスコッチウイスキーのスムーズな代替品として位置づけられてきた。

「スモーク香のないスコッチ」を堂々と自認したジェムソンの広告。だが「アイリッシュ=ノンピート」の図式は、政府の規制によって生まれた新しい伝統だった。

だが本当にそれだけで満足なのだろうか。そんな議論を始めた異端児たちが何人かいる。アイリッシュウイスキーの定義について、根本的な見直しをしてもいい時期なのではないかと彼らは言う。

ピート香は、決して万人向けのものではない。だがその一方で、多くのウイスキーファンは年を追うごとにスモーキーなタイプへと引き寄せられる。それが自然な思考の変化なのだと考える人もいる。好き嫌いに関わらず、これは通過儀礼のようなものなのだと。

だがアイルランドだけは違った。この国ではピートの効いたウイスキーが「別物」として扱われ、スモーク香は外国産の象徴と見なされていた。しかし実際のところ、このイメージは比較的歴史の浅い誤謬でもある。アイリッシュウイスキーがすべて3回蒸溜で、スムーズな飲み口で、いつでもノンピートだった訳ではない。これはスコッチウイスキーの世界的なマーケティング戦略に押されて、アイルランドの主要蒸溜所が閉鎖や合併に追い込まれた経緯で定着したイメージなのだ。

考えてみれば、アイルランドの国土には泥炭地がたくさんある。泥炭は燃料になるため、大麦モルトを乾燥させる熱源にも広く使用されていた。かつてのアイリッシュウイスキーとは、現代のものと根本的に異なったフレーバーだったことが想像できる。アイルランドの田舎で、スモーキーなウイスキーがつくられているイメージはロマンチックだ。だが史実を遡ると、イメージよりもなかり複雑な経緯が見えてくる。

ピートの効いた大麦モルトからスピリッツをつくる伝統は、蒸溜所の所在地や地元の人々の好みによっても変わってくる。アイルランドでもピートの効いたスピリッツはつくられていたが、それは合法にしろ密造にしろ、主にアイルランド島の北西部が舞台だった。

密造酒で有名なのは、ドニゴール県でイニシュオーウェン産のポティーン(原料は大麦モルト)。それぞれの蒸溜所は小規模だったが、生産量は馬鹿馬鹿しいぐらいに潤沢だった。イーニアス・カフェ(連続式蒸溜機を発明する前は物品税の監察官)が、1807年にこんな調査記録を記述している。

「イニショウエン半島には、800軒以上の蒸溜所が無届けでスピリッツを密造している。そのうちの101軒が、36時間以内に特定できた」

この「イニショウエン」と呼ばれる密造酒は、アイルランド全域に密輸されて販売されていた。月刊誌「ベルファスト・マンスリー」が1809年に次のような記事を掲載している。

「スモーキーなウイスキーが販売されている地域では(中略)、消費税を支払い済みの正規品よりも3シリング高い値段で流通していた」

つまりスモーク香のない官製ウイスキーは、一部のウイスキーファンに人気がなかったのである。

 

産業統制により駆逐されたスモーク香

 

アイルランドで、実際どれくらいの割合のスピリッツが、ピートの効いたモルト原料を使用していたのか知る由はない。だが1800年代までに強化された酒造免許制度が原因で、その後も長く続く大きな変化が起こった。つまりはダブリン、コーク、ベルファストなどの都市にある大型蒸溜所を優遇する政策を進めてしまったのだ。

「あのピート香がなければスコッチを好きになれそうなんだけど」「そんなあなたにオールドブッシュミルズ」と打ち出した古い広告。ノンピートは、スコッチに席巻された市場でアイリッシュが生き残るための方針だった。

これらの大型蒸溜所は何よりも効率を重んじ、穀物原料を大量に使用した。そして重要なのは、イングランドから簡単に石炭を輸入できたことである。アイルランドの財務報告書を調べると、1821年の時点で33軒の蒸溜所が公式に操業している。そのうちピートを燃料に使用していたのはわずか5軒で、その5軒のスチル容量をすべて足してもダブリンの蒸溜所にある最小の蒸溜器1基に及ばなかった。当時はまだ数百軒ほどの無認可蒸溜所がピートを使用していた可能性はあるものの、その生産量は比較的少なかったと見られている。

港湾都市にある巨大蒸溜所が生産量で圧倒し、リスクを承知でつくられていた密造酒への締め付けも厳しくなった。そもそも小型の蒸溜器しかない田舎の蒸溜所を禁酒の波と飢饉が襲った。そのような要因が重なって、アイルランドでは次第にピートの使用が廃れていったのである。

その一方で、アイルランド北部にあるブッシュミルズなどの認可蒸溜所は成長を続ける。1938年に制作された「オールドブッシュミルズ」の広告では、「ピートを使用しないすっきりとしたフレーバー」を誇らしげに謳っている。クセのあるスモーキーなウイスキーに対して、石炭を使用したクリーンな味わいのウイスキーが勝利を収めたのだ。

アイリッシュウイスキーの売上は低調で、しかもスムーズな飲み心地がメリットとして定着してしまった。スモーキーな味わいはスコッチ特有のものとして片付け、アイリッシュウイスキーの特徴がすっきりとしたまろやかさであると謳われるようになる。そして1973年には、複数の蒸溜所を巻き込んだ最後の大合併でアイリッシュ・ディスティラーズ社が誕生。このときからアイリッシュウイスキーの歴史は新しい大企業によって語られるようになった。そしてピートの効いたアイリッシュウイスキーの歴史は、首尾よく記述から削除されたのである。

 

日本市場を目指したクーリー蒸溜所の賭け

 

アイリッシュウイスキーは、1980年代に入っても不振の中にいた。よほどの変人でもない限り、アイリッシュウイスキー業界が投資に値すると考える者はいなかった。そんな変人の一人が、ジョン・ティーリングだった。ジャガイモ原料のアルコールを蒸溜する国有工場を買い取り、クーリー蒸溜所を創設。独立したウイスキーメーカーが、約100年ぶりにアイルランドで誕生した瞬間だった。

クーリー蒸溜所がつくった2回蒸溜のスモーキーなシングルモルト。「カネマラ」は日本のハイボール市場に参入を狙ったクーリー蒸溜所の賭けだった。

逆張りを常とするジョンは、ピーテッドモルトのみを使用したスモーキーなアイリッシュウイスキーを世界に売り出そうと考えていた。だがちょっとした手違いながら、その計画はいつの間にか変更されていたのだという。

「実際の計画については、何も知らされていなかったんです。ただの会長職なので、誰も詳細を教えてくれませんでした」

計画を手動していたのは、取締役社長のデービッド・ハインズとクーリー蒸溜所キルベガン工場長のブライアン・クインだった。彼らは日本のハイボール市場に向けて、ピートの効いたモルトウイスキーを作ることに決めたのだという。ジョンはおなじみの微笑を浮かべながら当時を回想する。

「ピートを効かせたモルトウイスキーが熟成中だと知ったのは、計画を始めてから4年後のことでした。当時のクーリーはまだフランスにさえ市場を開拓できていません。日本なんて、はるか遠い国の話に思えました」

この商品をなんとか開発するため、ジョンは若いマーケティングのインターンたちを部屋に集めてチームを結成した。そしてこの熟成中のスピリッツを商品化する計画ができるまで、会社に残るように要望したのだ。インターンたちは商品名を考え出し、ボトルちラベルのデザインを決めた。そうやって1996年に発売されたのが「カネマラ」だ。このウイスキーは、発売以来ほとんどデザインや中身を変更していない。

その後もクーリー蒸溜所は、アイルランドで唯一の独立系蒸溜所として約30年にわたってウイスキーをつくり続けた。独立資本の歴史が終わったのは2011年のこと。総額9500万ドルでビーム社に売却された。「カネマラ」は今でもクーリー蒸溜所のベストセラーである。
(つづく)