「スーパーニッカ」を知る
ニッカ創業者竹鶴政孝氏の、最愛の妻リタ夫人への哀悼の想いとウイスキーづくりの信念の全てを注ぎ込んだ「スーパーニッカ」。その歴史とつくりのこだわりを紐解く。
先日のレポートでは、3月24日発売の復刻版第三弾「初号スーパーニッカ復刻版」についてご紹介した。今回はさらにじっくりと、「スーパーニッカ」そのものに迫ってみよう。
1950年代後半から、ニッカウヰスキー社の事業は順調に成長し、拡大を続けていた。晩年は病気がちだったリタ夫人は、余市の冬の厳しさを避けるために本州(東京、鎌倉)で静養したり、小樽の病院での入退院を繰り返したりしていた。
長期の出張なども増え多忙を極めた竹鶴氏は、リタ夫人とゆっくり語り合う時間をもつことも難しくなっていたが、最善の治療を受けさせるためにあらゆる手を尽くしていた。
1961年1月17日。結核、癌、始終続く発熱などの病魔と闘いながら、最終的には肝臓を患って、リタ夫人は64歳でこの世を去った。
悲しみのあまり、葬儀にも参列できないばかりか、竹鶴氏は2日間自室から外へ出ることもなかったという。その時の気持ちを、竹鶴氏は後にこう綴っている。
「英国留学中の私と結婚し、はるばる未知の国、日本までやって来て、私より若いのに、先立った妻の運命がかわいそうでならなかった。もし私とではなしに、英国人と結婚して英国で生活していたら、リタの妹たちのようにまだ生きていたのではないか、という思いが私の胸を締めつけていた」
戦時中の日本での緊張に満ちた生活、生活環境の変化などが夫人の寿命を縮めたのではないかと竹鶴氏は悩み続けた。
その苦悩の中で竹鶴氏は、夫人とともに過ごした時間に樽の中で静かに熟成した原酒を使って最高のウイスキーをつくることが、リタ夫人に対しての最大限の供養であり、恩返しであり、愛情表現であると気づいたのではなかろうか。
養子として迎えた威氏と二人、余市蒸溜所の研究室にこもり、ありとあらゆる原酒の組み合わせで試作を重ねた。
そして、1934年の創業以来つくり続けた原酒から、その当時考えられる最高の味わいを持つ組み合わせを導き出し、竹鶴氏のブレンディングの集大成「スーパーニッカ」が誕生した。
現在の「スーパーニッカ」は、ニッカのブレンデッドウイスキーの中ではミディアムレンジに位置しているが、竹鶴氏が開発した当初は文字通り「スーパー」であった。
大卒初任給は1万7000円の時代に3000円という高価格で発売…現在の価格にすると4万円前後である。それほど竹鶴氏にとって、この「スーパーニッカ」は自信作だったのだ。
最高品質のウイスキーというだけではない。パッケージには職人による手吹きのガラスボトルを採用し、特製の木箱に収めた。
そのボトルはニッカウヰスキーと同年に創立されたガラス工房「各務(かがみ)クリスタル」製である。創業者の各務鉱三氏は青年時代ドイツに渡ってガラス工芸を学んでおり、本物をつくるべくヨーロッパで修業したという共通の経験が二人の友情を結びつけていた。
「スーパーニッカ」のブレンドが完成し、ボトルを探して各務クリスタルを訪れた竹鶴氏は、パッと見るなり「これがいい」と、そのボトルを抱きしめて離さなかったそうだ。
それは、一本ずつ手で完成させる手吹きのボトルだった。すらりと伸びた首と柔らかにふくらんだボディが竹鶴氏を魅了した。ガラス栓は口径にあわせて同じく手づくりされており、それぞれの番号が一致しないと閉まらないという芸術作品のようなボトルだった。
そのため非常に高価で、2級ウイスキーが300円台で買えた当時、ボトルの原価だけで500円したという。
そこには、「ウイスキーが熟成するまでに何年もかかる。これは娘が大きくなれば嫁にやるのと一緒なのだから、立派な衣装を着せてやりたい」という竹鶴氏の想いが込められており、リタ夫人への想いを詰め込んだ中味同様のこだわりが集約されていた。
現行の「スーパーニッカ」は背面に「S」の字の浮彫が施されている。
ポットスチルのような、ウイスキーの滴のような、柔らかさと豊かさが同居する印象的な形状はそのままだ。
前述の通り、中味は竹鶴氏がブレンドした当初のものとは位置づけが異なっているが、竹鶴氏の目指した「最高のブレンデッドウイスキー」という精神は失われていない。
時代の嗜好を踏まえた改良を重ね、ニッカらしい力強さと芳醇さに甘く伸びやかな熟成香を備えた、「今考えられる最高のブレンディング」の技がいかんなく発揮されたウイスキーである。
普段はシングルモルト党という方も、ぜひ改めて竹鶴氏の至高のブレンディングを、脈々と続くニッカの妥協なき製品づくりの本質を、この「スーパーニッカ」でご体感いただければと思う。