南北戦争から禁酒法の時代へ。激動の時代を乗り越えて、まず復活を果たしたのはジャックダニエルだった。クラフトウイスキー全盛の現代でも、テネシーウイスキーの伝統はしっかりと守られている。

文:クリス・ミドルトン

 

南北戦争が終わっても、ロバートソン郡の蒸溜所は引き続きテネシー州内のスピリッツ生産をリードした。 同時に、蒸溜所の設備や工程をさらに実験的な形で改善しようという努力も見せている。ロバートソン郡の蒸溜所がユニークな手法や技術を創始したときも、政府はたくさんの新たな認可を与えていった。

コフィー郡のカスケード蒸溜所でつくられる「ジョージディッケル」は、ジャックダニエルに次ぐテネシーウイスキーの代表ブランド。コーンどころのテネシーらしく、原料の84%がコーンである。

大規模な蒸溜所では、クローズドな蒸溜システムの一部に酸素を加熱して供給し、気化を促進する手法が採用された。また精製用のコラムに木炭パウダーを詰めるのも人気製法のひとつになった。このコラムはコラムスチル、再溜器、コンデンサー台の間に置かれることが多かった。

当時の新聞には、木炭を熱して使用する新型装置の記事も掲載されている。他には精溜器を改良した再溜器で、実質3回分の蒸溜をできるようにした例もあった。これは1868年2月にヘンリー・カークが取得した特許である。ローワインが蒸溜されてから再溜器を2回通す仕組みになっているので、実質的に3回蒸溜していることになると主張したのである。

またロバートソン郡のスプリングフィールド蒸溜所では、クローズドな蒸溜システムのなかに木炭を投入してしまうという大胆な手法もとられた。バレルを使った従来型の濾過でかかる1樽あたり50セントの経費を節減するためである。まずコラムスチルのヘッド部分にシリンダーユニットをマウントし、そこに入れた新しい木炭パウダーを回転させながらスチル内に投入する仕組み。おそらく木炭パウダーは、余分な穀物のかすなどを付着させながらコラムスチルの底に落ちるのだろう。

ロバートソン郡には、加熱による熟成促進を試みていた蒸溜所もある。これは熟成中の樽内に熱した棒を差し込んで熟成を活性化させるというもの。この方法で1年熟成のウイスキーが3年熟成のような味になるという触れ込みである。また木炭濾過でフーゼル油を除去し、甘くてすっきりとしたフレーバーをウイスキーに注入する手法も生まれた。
 

ケンタッキーを超えるライバルの台頭

 
1868年7月、政府は標準的な40ガロン(150L)のバレルで熟成されたウイスキーの物品税の徴収を12ヶ月延長。メーカーにとっては、税金の支払いによるキャッシュフローの悪化が緩和されることになった。1878年にはこの猶予期間がさらに3年に延長。これによって蒸溜所は蒸溜した時点に物品税を払う必要がなくなり、税金の納入期限までウイスキーを熟成できるようになった。

南北戦争以前は、3年以上熟成したウイスキーが「オールド」(長期熟成)と見なされていた。ロバートソン郡とリンカーン郡のウイスキーは、もともと2年以上熟成するのがならわしだ。 一方で、精溜、調合、混合などの設備や技術も進み、グレーンスピリッツに化学物質やフレーバーを加える手法も横行。色や風味でウイスキーの熟成感を偽れることから、「オールド」といった用語の使用に法的な制限をかける意味も薄らいでいた。

リンチバーグにあるジャックダニエルの本拠地。世界屈指のアメリカンウイスキーは、ケンタッキー州のブラウン・フォーマン社の傘下にある。

1870年代のテネシー州で、バレルから直接購入できるアメリカンウイスキーはよりどりみどりだった。シンシナティ産の「グットロット」と呼ばれる安酒は、硫酸を使って風味をごまかしたウイスキー。ペンシルベニア州のマノンガヒラやケンタッキー州からはライウイスキーが届いていた。ボルティモアやフィラデルフィアでは、風味調整したライウイスキーを生産していた。

地元テネシー州では、テネシー産のサワーマッシュウイスキー、ホワイトウイスキー、コーンウイスキー、そして一般的なウイスキーもあって、 ケンタッキーバーボンとしのぎを削っていた。リンカーン郡では木製蒸溜器でつくった「ホームメイド」のウイスキーも流通していた。食料品店、卸し酒屋、居酒屋には「ニューソムズ」「メイクイーン」「スミス」「ディーンズ」「ドクター・ドロートン」「ワード&キャリーズ」「パイクスマグノリア」などのウイスキーブランドを刻印したバレルが並び、まるで現代のウイスキーのマーケティングを先取りするような光景が見られたという。

テネシー州のウイスキー業界には、小春日和のように穏やかな時代がしばらく続いた。だがそんな夢も1890年までにはすっかり醒めてしまう。禁酒法が施行されるまではまだ20年の猶予があるものの、目下の懸念は米国内におけるコーン栽培地の広がりだ。オハイオ、イリノイ、ネブラスカの各州には新しいコーン畑が広がり、巨大なコーンベルトと化してきた。鉄道が整備されたことで大量の穀物を安価に輸送できるようなり、大型の蒸溜所にどんどん原料を供給するようになった。

最盛期の1885年には、イリノイ州のピオリアで公式に認可された蒸溜所の数が86軒にも上ったという。ピオリアにある数軒の蒸溜所を合わせただけで、テネシー州全土の年間生産量よりも多くのウイスキーを1ヶ月で生産してしまった。1880年までに、イリノイ州ピオリアは世界最大の蒸溜酒生産地となる。年間生産量1850万プルーフガロン(純アルコールで4200万L)という驚くべき規模である。グレートウエスタン、モナーク、コーニング、グローブ、クラークブラザーズなど、世界最大規模の巨大蒸溜所がピオリア川の沿岸にずらりと並んだ。

これ以外にも、オハイオ州からケンタッキー州にかけてはディスティラーズ&キャトルフィーダーズ社が運営する76軒の蒸溜所が点在していた。同社はピオリア出身のジョセフ・グリーンハットが経営する企業連合である。 1880年代は、企業の合併が進んだ巨大ビジネスの時代だった。グリーンハットの企業連合は、全米の80%にあたるウイスキーと工業用スピリッツを生産し、スピリッツの価格を独占しつつあった。それに比べて小規模なテネシー州の蒸溜所は、田舎に散らばっていて交通の便も悪い。今やケンタッキーバーボンよりもはるかに恐ろしいライバルとの戦いを余儀なくされたのである。
 

禁酒法後のテネシーウイスキー

 

1910年1月に禁酒法が制定されると、すべての蒸溜所が操業を停止した。世紀の悪法が終焉し、1938年にいち早く操業を再開したのはリンチバーグのジャックダニエル蒸溜所である。やや紛らわしいことに、ジャック・ダニエルは自分がつくるサワーマッシュ100%のスピリッツを「ウイスキー」として登録していたが、後年のラベルには「ジャックダニエル ピュア リンカーン コーンウイスキー」と印刷している。

ジャックダニエルのアンバサダーを務めるリン・トリー。波乱万丈の歴史を生き残ったテネシーウイスキーを未来へ受け継ぐために精力的な活動を展開している。

1958年には、シェンリー社がテネシー州で2番めの蒸溜所となるカスケード蒸溜所をコフィー郡で再開。その4年後に「ジョージディッケル」を発売した。このときのウイスキーの表記は、テネシー州で使われていた19世紀の綴り(WHISKY)を採用している。

1950年代になって、ジャックダニエルのマーケティング部門は「リンカーン工程」という用語を使って他ブランドとの差別化を始めた。リンカーン郡産のコーンを使用した「リンカーンウイスキー」という古い呼び名へのオマージュを込めたのかもしれない。アメリカで唯一、チャコールメローイングによる濾過工程を実践する蒸溜所として、リンカーン工程という言葉は「テネシーウイスキーの木炭濾過」の代名詞になった。

1997年以来、テネシー州では小規模のクラフト蒸溜所が次々と設立され、30軒以上の新しい蒸溜所が仲間入りしている。テネシーウイスキーのアイデンティティーを守るため、州議会では2013年5月にテネシーウイスキーの定義を立法化した。テネシーという地名をラベルに印刷するウイスキーは、蒸溜と貯蔵をすべてテネシー州内でおこない、サトウカエデの木炭で濾過すること。必ずしもサワーマッシュ製法である必要はないが、グレーンビル、蒸溜、オーク樽、最低熟成年数などの製造法は、連邦法で定められるバーボンウイスキーの条件に準拠しなければならない。

テネシー州のロバートソン郡とリンカーン郡。どちらの産地名も歴史は深いが、今でもウイスキーの名産地として知られる訳ではない。だがテネシーウイスキーという言葉には特別な意味がある。テネシーウイスキーとケンタッキーバーボンをあわせれば、全米のストレートウイスキーの生産および販売の95%を占める。世界をリードするアメリカンウイスキーはテネシー州にあり、その親会社はケンタッキー州屈指のバーボンメーカーだ。かつてのライバルは、今や志をひとつに共闘しているのである。