クライドサイド蒸溜所とグラスゴーの未来【前半/全2回】

March 30, 2018


貿易の中心地として栄えたグラスゴーのクイーンズドックに、モルトウイスキーの生産拠点が帰ってきた。クライドサイド蒸溜所設立の舞台裏を追う2回シリーズ。

 

文:クリストファー・コーツ

 

グラスゴーといえば、スコットランド最大の人口を誇る都市である。ウイスキー業界にとっては主要な貿易港であり、消費の中心地としても重視されてきた。しかしグラスゴーが現在のような大都会になったのは、意外なほど最近のことである。

中世を通じて、グラスゴーはやや規模の大きな農村に過ぎなかった。15世紀半ばにグラスゴー大学が創設されると学問の中心地になったが、依然として鄙びた田舎町であることに変わりはなかった。当時は人口もわずか数千人で、後に開発の中心地となるクライド川もまだ浅く、引き潮の時間には歩いて対岸に渡れるほどだった。上流のダンバートンまで水路で移動できるのは小型船や艀だけだったのである。

それに加えてスコットランドの西岸にあるグラスゴーは、当時から盛んだったヨーロッパ本土との国際貿易において不利な場所だった。だが1603年にスコットランドとイングランドの王位が統一されたのを機に、イングランドとの陸上交易が隆盛する。地元経済もある程度の刺激を受けるようになった。

そして陸上交易よりも大西洋をまたいだ国際貿易が重要な時代になると、グラスゴーの町は本格的な繁栄の道を歩み始めた。町の運命を大きく切り拓いたのは、ブルーミーロー埠頭の再開発だ。17世紀に川を浚渫した大工事のおかげで、グラスゴーが勅許自治都市の認定を受けることになったと考える人は多い。

18世紀になるとグラスゴーの人口は7万人を超え、大西洋貿易の収益も急激に増大してきた。欧州におけるアメリカ産タバコの販売権をほぼ独占したことや、いわゆる三角貿易における立場で優位を築いたことが町の発展に拍車をかけた。

その後、英国の植民地だったアメリカが独立したことで一時的な経済的打撃は被ったものの、グラスゴーはすでに押しも押されぬ大都市に成長していた。やがて産業革命が起こると、その中心地としてさらなる飛躍をもたらすことになる。

さて、当時のウイスキー業界はどのような状況だったのだろうか。1787年までにグラスゴーでは3軒の蒸溜所(ダンダスヒル、ヨーカー、ゴーバルズ)が公式に認可されていたが、他にも無数の密造酒の生産拠点が蒸溜器を保有していた。

1823年の物品税法改正による優遇措置から、グラスゴーのウイスキー業界はさらなる成長が見込まれるようになった。その後の3年間で、10軒以上の蒸溜施設が認可を取得。1860年代までには「ドラムショップ」のネットワークができて地元市民は潤沢なウイスキーを手に入れることができた。そのような事業者のひとつが、18軒の店舗を展開するウィリアム・ティーチャーだった。

禁酒運動が徐々に盛り上がりを見せてはいたが、厳重な規制によって管理されたウイスキーづくりのおかげで高品質(当時の基準)なアルコールが手に入りやすくなった。雑貨商から出発したブレンダーが各地に支店を増やし、スコットランド最初期のウイスキーブランドとして成長した時期でもある。「ティーチャーズ ハイランドクリーム」をはじめ、この頃に隆盛したウイスキーの多くは現代でも存続している。

 

ビクトリア朝時代からの栄枯盛衰

 

クライドサイド蒸溜所の第1号樽に、初めてのスピリッツを詰めるティム・モリソン氏。グラスゴーに本格的なモルトウイスキーづくりの伝統が帰ってきた。

19世紀後半になると、ウイスキーファンには馴染みのある名前も登場してくる。1877年にモリソン&メイソンカンパニーが、グラスゴーの有名なクイーンズドック地区で創立。当時のクイーンズドックは、工学分野の専門企業が集まる場所として知られていた。クイーンズドックの波止場の入り口には時計台を掲げた優美なポンプハウスが建てられ、波止場に通じる橋の通行をチェックして物品の流通を管理した。

モリソン&メイソンカンパニーの創設者の一人が、ウイスキー業界のパイオニアとして知られるジョン・モリソンだ。ジョンの息子のスタンレー・P・モリソンがウイスキーの仲買会社を設立し、これが後にモリソン・ボウモア・ディスティラーズとなる。現在はビームサントリー傘下に入っている企業だ。

輝けるビクトリア朝時代にグラスゴーで隆盛したのは貿易だけではない。グラスゴーの造船所は世界的な名声を集め、「クライド製」は高品質な製品の代名詞となった。当時のグラスゴーは「大英帝国第2の都市」として名を馳せていたのである。

だが20世紀に入ると、状況は様変わりする。クイーンズドックのポンプハウスが建設された1877年からちょうど100年後の1977年、この建物が閉鎖されて再開発の対象になったことが地域の衰退を象徴している。そこに至るまでの数十年間にはさまざまな商業活動がクライド地区で痩せ細り、グラスゴー市内の蒸溜所もひとつまたひとつと姿を消していった。この経済の衰退は、クライド地区での造船業が落ち込んできた傾向も色濃く反映している。

グラスゴー市内で最後に建設されたモルト蒸溜所は、1957年にグレーンウイスキーのストラスクライド蒸溜所に増設されたキンクレイス蒸溜所だった。この工場でのグレーンウイスキーの生産はペルノ・リカールのもとで現在も継続しているが、モルト蒸溜所の設備は1975年に廃止されてしまった。

グラスゴーで長く生き残ったスコッチウイスキー蒸溜所には、ディアジオが所有していたグレーンウイスキーのポートダンダス蒸溜所もある。2010年に閉鎖されるまでしぶとく存続してきた。

ともあれ1970年代以降、グラスゴーの町で稼働したポットスチルが皆無だったのは事実である(ホープ通りのウイスキーバー「ポットスチル」は別にして)。一方で、たくさんのウイスキー会社が本社機能をグラスゴーに維持していた。2010年代に入ると、グラスゴーに足りないのはビジター施設を完備したシングルモルト蒸溜所だと誰もが気づき始める。モリソン・グラスゴー・ディスティラーズ会長を務めるティム・モリソンや、営業部長を務める息子のアンドリュー・モリソンも、この課題を忘れたことはなかった。

(つづく)

 

 

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