ウイスキー新勢力【2. タスマニア 前半/全2回】

October 4, 2014

新たなウイスキーづくりの地を紹介するシリーズ第二弾はタスマニア。オーストラリアの南に位置するこの島では、今ウイスキー産業が最盛期を迎えている。

もしあなたがオーストラリア、タスマニアのウイスキー産業について誰かに尋ねたなら、きっとビル・ラークの名前を聞くことになるだろう。
スコッチ愛好家のビル・ラークは、ウイスキーづくりに挑戦してみたいと夢見ている測量技師だった。それがいつのまにかタスマニアに新たな産業を成長させることになろうとは、だれが想像できただろう?

雲に覆われたウェリントン山が背後にそびえるホバートの町、その水辺にある「ラーク・ウイスキーバー」。この店を訪れたら、かなりの確率で、オーストラリアンウイスキーのゴッドファーザーと呼ばれるこの男から話を聞くことができるだろう。
私が会ったとき、ラークは「ロイヤル・メルボルン・ファインフード・アワード(メルボルン王立優良食品賞)」で「ベスト・オーストラリアン・ディスティラー」と「チャンピオン・ウイスキー」を受賞したばかりとあって、特に意気揚々としていた。

その後に知ったところでは、現在9ヵ所あるタスマニアの蒸溜所は賞や栄誉に事欠かかないようで、数年のうちにはさらに2ヵ所でウイスキーづくりが開始される予定だ。
しかし、そのタスマニアン・ウイスキーも、他の国での最初のウイスキーづくり同様に、スタートは簡単ではなかった。話はラークがガレージセールで中古のスチルを買い、それを使うことが違法だと知ったときから始まる。

「80年代にタスマニアでウイスキーをつくりたいと思った私たちは、この島は素晴らしい大麦、豊富なピート、ウイスキーづくりに適した水、そして最適な気候に恵まれていることに気付きました。何故今では誰もウイスキーをつくっていないのだろうと思うほどにね」
タスマニア最後の蒸溜所は、1839年に閉鎖されていた。オーストラリアは1901年に連邦になったときに「スコットランド蒸溜所法」を採択し、小規模経営は事実上、違法になってしまったのだ。

「個人経営のことは誰も気にも留めていませんでした…産業規模の事業しか考えなかったようです。たまたま連邦議員のダンカン・カーとホバートの町を歩いていたときに、その話をしました。彼は『ウイスキーづくりはタスマニアにとって良い産業になるだろうな』と言い、キャンベラのバリー・ジョーンズ議員に連絡したんです。するとジョーンズ議員は『私が蒸溜所法を変えよう』と言いました」
法改正につながった2人の政治家の書類は、額に収められてこのウイスキーバーの壁にかかっている。

「彼らのおかげで、私たちは植民地時代以来初めて認可を受けたモルトウイスキー蒸溜所になりました。1992年に免許を受けるとすぐにスコットランドから電話をもらいましたよ、『何かお役に立てることはありますか?』って」
軟水と涼しい気候というタスマニアの自然の恵みに加えて、スコットランドの蒸溜業者から聞いた小規模生産の利点に関する話も役立った。

ラークのウイスキーは全てクォーターカスクで熟成され、ボトルにカスク番号を印字したシングルカスク・エディションとして販売されている。
この小ぶりの樽で熟成したウイスキーには、樽の特徴がはっきりと反映し、何とも素晴らしい風味をもたらす。

オランダ生まれの建設技師で、後に蒸溜業者に転向したケイシー・オーフレイムもまた小さい樽を愛用する。彼によると、ハーフまたはクォーター・サイズの樽を使うというアイデアはスコットランドのウイスキーメーカー、ジョン・グラントがもたらしたそうだ。
「彼はこう教えてくれました。『最高のウイスキーは100ℓの樽から生まれる。父がいつも言っていましたよ』と」

カスケードブルワリーのウォッシュを使ったオールド・ホバート・ディスティラリー「ザ・オーフレイム 」。名前こそ田園風だが、ブラックマン湾を見下ろす郊外に建つ、彼の自宅の清潔な倉庫でつくられている。
「最初は趣味だったんですよ。ビジネスになるなんて思いもしなかった」
この蒸溜室の棚には、素晴らしいボトル・コレクションが並び、その中から35年モノのカリラを試飲させてくれた。
「スコッチが大好きなんです。私たちはスコットランド人を越えようと思ったことなどありませんよ。彼らからは実に多大な援助を受けています」
製品の需要が増えたときには、ノルウェー人の妻グレーテと娘のジェーンも生産を手伝った。
「私と妻と娘がここでボトリングします。娘が音楽をかけてね」

【後半に続く】

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