ウイスキー業界で半世紀に及ぶキャリアを築き、自由な発想と独創性でスコッチウイスキーを進化させてきたビリー・ウォーカー。挑戦の歴史を振り返る2回シリーズのインタビュー。

文:クリスティアン・シェリー

 

ビリー・ウォーカーは、瞑想者のように深く考え込んでいるようだった。ウイスキー業界で最も名の知られた人物の一人であり、これまでスコッチの世界に与えた影響は計り知れない。鋭い洞察で先を見通し、時には直感的な判断で周囲を驚かせてきた。

そんなビリーも今や業界の長老となり、2021年2月にはウイスキーマガジンの殿堂入りを果たした。儀礼的な形式に関心のないビリーは、ただ黙々と目の前の仕事に取り組んでいる。だが今日のビリーの声は、いつもよりやわらかな響きを帯びている。時間を作ってもらったのは、スコッチ業界での50年間を振り返ってもらうためだ。

「朝起きるたびに、感謝の気持ちを感じていますよ。そうか、私は今日もウイスキーで遊べるのか。なんて幸運な人生なんだろうってね」

シーバス・ブラザーズ傘下のハイラム・ウォーカーに入社したのは1972年のこと。ウイスキー業界での旅は続き、アナリストとからブレンダーへ。2004年には蒸溜所を買収してみずから経営者となった。現在はスコッチ業界で最も著名なベンチャー企業であるグレンアラヒーを代表している。

ビリーの考え方は新しい事業の扉を開き、意欲ある仲間たちを集め、蒸溜所ごとのユニークな特徴を世に広めるのに役立ってきた。だが本人はごく控えめな口調で、いつものように自身の譲れない哲学を語る。

「私にとっても、チームにとっても、品質がすべて。この原則は最初から変わっていません。同業者の中には、この原則に共感してくれる人がいるかもしれませんね」
 

独創的なウイスキーづくりの原点

 
ウイスキーの町として知られるダンバートンで生まれ育ったビリー・ウォーカー。ウイスキー業界でキャリアを積むチャンスには、いつも恵まれていたと振り返る。最初は化学関連の仕事に就いたが、その後ハイラム・ウォーカーに入社し、バランタインなどのブランドに携わるようになった。

「バランタインの仕事では、素晴らしい学びの機会が得られました。貯蔵庫で働いたり、ボトリング工場の仕事を任されたり、ブレンディングに携わったりしました。そんな経験のおかげで、このウイスキー業界がどんな場所なのかを多面的に理解することができたんです」

「品質がすべて」はただの標語ではない。5年前に買収したグレンアラヒー蒸溜所では、スピリッツの品質を追求するために生産量を4分の1まで縮小して周囲を驚かせた。

ウイスキーづくりにまつわるビリーの哲学は、「一貫性を守る」というプレッシャーとの闘いから始まった。これはどんなブランドでも繰り返し突きつけられるテーマだ。有名ブランドには定評を守っていく大きな責任があり、古くからのファンを失望させてはならない。そんなウイスキー業界の掟もビリーは理解している。

だがビリーは、あえてブランドの刷新や再生に力を入れてきた。

「ウイスキーづくりでは、自分が信じていることしか言葉にできません。キャリアを通じて携わってきたのは、自分なりの継承ができる蒸溜所や、人々があまり注目していない蒸溜所でした。そこにはいつも手つかずの白いキャンバスが用意されていて、大企業では味わえないような自由があったんです」

初めてマスターブレンダーを務めたのは、1976年のインバーハウスからだ。ビリーは当時を振り返る。

「本当に魔法のような時間でした。インバーハウスは信じられないほど創造的な会社で、何の障害もなく自分たちなりの目標を立てて、やりたいように達成できたんです。私自身も大きな裁量が与えられて、独創的な仕事ができました。この自由な感覚は次の移籍先であるバーンスチュワートでも発揮できたし、その後のディーンストンの復活にも生かされています」

人々があまり注目しなくなった蒸溜所を元気に復活させたい。そんな情熱は、ディーンストンで芽生えたようだ。発酵槽を取り替え、高度な衛生管理を導入するのは、面倒で時間のかかる複雑な仕事だった。しかし、それはビリーにとって幸運な瞬間でもあったのだという。

「実のところ、とても楽しかったんですよ。当時はシングルモルトの市場も小さく、消費者の注目は有名なブレンデッドウイスキーに偏っていました。そこであえて蒸溜所の個性を取り戻し、ディーンストンらしいスピリッツのスタイルを再構築しようと思ったのです。酵母の種類、発酵時間、スピリッツのカットなど、基本に立ち返ってすべて設計し直しました。それは蒸溜所を新しく設立し、独自のシングルモルトをつくり始めることにも似た経験です。本来ならすべてのスピリッツがブレンデッドウイスキー用になるディーンストンの運命を変えられたのですから」
 

ベンリアックの買収とブランドの再生

 
ここから話は徐々に感傷的な思い出へと向かっていく。ディーンストン蒸溜所を復活させたビリーは、2人のビジネスパートナーとともにベンリアック蒸溜所を買収することになる。蒸溜所への愛着を抱きながら、商業的な成功を期して買収や売却を決断するとき。そこにはウイスキー業界ならではの難しいテーマが浮かび上がってくる。

「確かにそのときは、一時的にいろんな感傷もありますよ。でも変化の時期は、自分にとって好ましい時期でもあるんです。新しい視点とマインドで、あらためてウイスキーづくりに打ち込めるチャンスですから。それは悪いことばかりでもありません。古くから受け継がれてきた蒸溜所の魂や、そこで働く人たちの思いはオーナーが変わっても消えずに残るものですし」

良質なスピリッツをつくり、良質な樽で熟成せすればうまくいく。そんなシンプルな哲学をここまで徹底できる人は多くない。

ディーンストンで火がついた独創性への志向は、ベンリアックでも発揮されることになった。

「いろいろなアイデアがありました。導入できたものもあれば、少し時間がかかったものもあります。でも基本的に足かせのような障壁はなく、自由に発想してアイデアを試すことができました。うまくいったものもあれば、うまくいかなかったものもあります。どちらにしても、さまざまな角度から新しいウイスキーづくりを追求する自由がありました」

そしてここでも一貫性の問題が立ち上がってくる。ウイスキー業界とは不可分の重要なテーマだ。

「絶対的なフレーバーの一貫性を追求しようとは考えていませんでした。一貫性ばかりを追い求めるのではなく、卓越した完璧な香味のウイスキーを目指すのです。もちろんある程度の一貫性を維持しながら、さらなる高みを目指すことだってできるでしょう。でも私たちは歴史は縛られませんでした」

買収の対象として、ベンリアック蒸溜所はどんなところが魅力的だったのだろう。

「当時の業界が、どんな状況だったのかを振り返れば理由がわかってくるでしょう。モルトウイスキーの蒸溜所のなかには、閉鎖されたり、長い休業を余儀なくされいるところも数多くありました。ベンリアックもそんな蒸溜所のひとつだったのです。当時のシングルモルト全般の生産量も、今日の基準から見れば控えめなものでした。蒸溜所が簡単に買収できるとは言いませんが、現在よりも簡単だったことは確かです」

チャンスを見極める目は、ここで発揮されたのだとビリーは振り返る。やるなら今しかないと感じたのだ。

「私たちは何かを創造したかった。自分たちにはエネルギーがあるし、知識も十分に積んだし、理想のウイスキーをつくるチャンスがやってくる予感もしていました。そんな予感を信じた理由のひとつは、シングルモルトの魅力が幅広く理解されるようになっていた時代の変化です。あるいはシングルモルト市場が完全に開拓されていなかった当時のタイミングも有利に働きました。従来の小売店ではなく、情報通のウイスキーファンに認められたら成功できるというチャンスが目の前にありました」

ベンリアック買収の道のりは、比較的簡単だったとビリーは言う。

「前オーナーのシーバスが、とても好意的だったので助かりました。市場の状況にとても理解のある人たちで、ベンリアック蒸溜所が再び脚光を浴びるチャンスに賛同してくれたのです」
(つづく)