“Promised Land” ― 余市 【前半/全2回】

January 27, 2015

朝の連続テレビ小説「マッサン」でもついに余市編がスタート。改めてそのウイスキーづくりの“約束の地”余市の歴史と蒸溜所のこだわりを掘り下げてみよう。

日本のウイスキーの父 ニッカウヰスキー創業者・竹鶴政孝氏がウイスキーづくりの理想郷を求め、たどり着いた場所…北海道・余市
清らかな水、ピート、大麦、石炭というウイスキーに必要な要素が全て揃っているだけでなく、スコットランドに似た冷涼かつ湿潤な気候。まさに竹鶴氏が思い描いた場所だった。

余市は小樽の西、積丹半島の付根に位置する。江戸時代から大正時代にかけてはニシン漁で栄え、明治時代には日本で初めて民間の農家がリンゴの栽培に成功。漁業と果樹栽培は現在でも同町の主要な産業である。
竹鶴氏が蒸溜所を建設するまでは民家もほとんどなく、原野が広がっていた。
リタ夫人との新婚生活を送ったキャンベルタウンもニシン漁が有名であり、港町の潮風も竹鶴氏にスコットランドを思い起こさせたことだろう。

標高約1,500mの余市岳を始めとする山々には厳しい冬の間に深く雪が降り積もる。遅い春が訪れると、ゆっくりと解けて余市川に注ぎ込み、清廉な仕込み水となる。
当時余市川の上流では、日常的にかまどや風呂の燃料としてピートを使っていた。それを発見した時の竹鶴氏の喜ぶ顔が目に浮かぶようだ。
そしてその冬の寒さもウイスキーには良い影響を与える。適度な湿度と冷え込みが、貯蔵中の原酒に穏やかな熟成を促すのだ。
石狩山地から広がるなだらかな山肌を彩る果樹園では、ウラジオストクへも輸出したリンゴの他、梨やブドウ、杏などを産し、当時すでに余市は北海道を代表する果樹王国となっていた。

しかし竹鶴氏がそのリンゴを用いてジュースを作り、ウイスキー生産が軌道に乗るまでの主軸にしようと考えていたのは余市に着いてからではなかった。創業の3年前の1931年には、再び訪れたスコットランドで「林檎酒とペリー酒」(Radcliffe Cook著 “Cider and Perry”、「ペリー酒」は洋ナシの発泡酒)という書物を購入しており、既にこの頃から構想を持っていたようだ。
竹鶴氏は、これまでに日本で初めての濃縮ジュースの製造に携わった人物でもあった。独立に至るまでの期間には、ウイスキー事業を安定させるための計画にも余念がなく、かねてから北海道を目的地に定めていたことを窺い知ることもできる。

1934年、ついにニッカウヰスキーの前身である大日本果汁株式会社を余市に設立。
まず竹鶴氏は最高品質のリンゴを選び、ラムネが6銭、ソーダが10銭という時代に30銭という価格で、無添加で天然果汁100%の「ニッカ 林檎汁」を売り出した。しかし甘みを加えていないジュースは当時まだなじみがなく、思うように売れなかった。
さらに「清涼飲料水営業取締規則」により、濁ったものや沈殿物のある飲み物は販売できなかったのである。加えて北海道から本州への輸送は時間も費用もかさみ、早々にジュースから酒―アップルワインアップルブランデーの生産に切り替えられていった。

このリンゴを原料にした酒が、ウイスキーが誕生し独り立ちするまでニッカの屋台骨を支え続けた。
昨年「アップルブランデー“リタ” 30年」やリンゴの香りが広がる「リタハイボール」が登場したのも、そのウイスキーとリンゴの関係に竹鶴氏を陰で支えたリタ夫人を重ね合わせ、ニッカからの80年目の感謝と敬意が込められていたためだった。

【後半に続く】

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