20世紀のスコッチ広告(1) 政治、無頼、戦争

October 14, 2016

マス広告の世界で、常に重要なポジションを占めてきたスコッチウイスキーの有名ブランド。その歴史をさかのぼれば、時代ごとの事情や市民の暮らしぶりが見えてくる。

 

文:マーク・ニューソン

 

初期のウイスキー広告は、メーカーが政治や法律に物を申す効果的な方法として用いられていた。デビッド・ロイド・ジョージ首相による増税政策「人民予算」への反対意見もそのひとつである。ウイスキーに最低2年間の熟成期間を義務付けるという規制案であったが、そんな規制をされたら原酒の確保が難しくなり、ウイスキーの価格高騰を招くという反対意見を広告で訴えたのである。

1906年、ある2つの酒屋がイズリントン区議会で槍玉に挙げられた。規格外のウイスキーを販売して、1875年に制定された食品・薬品販売法に違反したことが問題となったのである。だがこのウイスキーというのが、実はポットスチルで蒸溜したモルトウイスキーではなく、コラム式スチルで蒸溜したグレーンウイスキーであった。これを契機に、「ウイスキーとは何か」という定義にまつわる論争が勃発する。モルト蒸溜所とグレーン蒸溜所が対決するという図式だったが、この問題も結局はグレーンウイスキーを生産するキャンバス蒸溜所のウィリアム・ロス氏が気の利いた広告を打ったことで決着を見た。全国紙に掲載された「キャンバス7年」の広告では、このコラムスチルで蒸溜されたウイスキーが「他のウイスキーとは明確に異なる繊細なフレーバー」を持っていると宣言され、「1ガロン飲んでも頭痛がしない」とまで書かれている。

初期のウイスキー広告で一世を風靡していた企業家の一人が、トミー・デュワーだ。ジョン・デュワーの息子で、後にデュワーズブランドを継承することになるトミーは、全英広告協会の副会長でもあった。「詩にイマジネーションが必要であるように、ビジネスには広告が必要だ」というのが彼の信念である。

1892〜1893年にかけてデュワーズが支出した広告費は3000ポンド強に達した。現在の物価では180,000ポンド(約2,500万円)に相当する金額だ。そして10年後には広告予算が20,157ポンドまで伸びた。これは現在の100万ポンド(約1億3,500万円)に相当する。

図1:デュワーズが1911年に設置したヨーロッパ最大の電光掲示板広告。最先鋭の技術でアニメーションを表現し、国会議事堂の政治家たちにも見せつけた。

このような巨額の広告費は、どのようなかたちで人々の目に触れるのだろう。1898年、デュワーズは飲料メーカーとしては世界で初めて映画広告を制作した。このショートフィルムの中では、キルトに身を包んだスコットランド人たちが「デュワーズスコッチウイスキー」と書かれた背景の前で踊り、傍らのテーブルにはウイスキーのボトルが1本置かれている。スコットランド人が抱くハイランドへの無垢な情景を端的に表現するフィルムだった。それでもこのフィルムはデュワーズが打ち出す「先祖伝来のウイスキー」をテーマにした広告キャンペーンの一環であったため、イメージの使い方には一定水準の洗練があった。この油絵をモチーフにしたキャンペーンは1890年代に始まり、史上もっとも長期間にわたって実施されたマーケティングキャンペーンのひとつに数えられるまでになった。

1911年、デュワーズはヨーロッパ最大の電光掲示板広告をロンドンの堤防内にある「デュワーズ埠頭」に設置した(図1)。これはキルトに身を包んだスコットランド人を描いたデザインで、10km以上の電気ケーブルと1,400個の白熱電球を使用している。電飾の動きで、キルトが揺れてハイランドの男がグラスを口に運ぶアニメーションになった。この掲示板が国会議事堂からも見えたのも利口な作戦だった。

 

奇抜な広告予算と政策批判

 

クリエイティブなマーケティングと、膨大な広告費の支出いとう点において、当時のデュワーズに匹敵する企業がもうひとつある。それはリースに本拠地を持つパティソン・エルダー&カンパニーだ。同社は1898年に60,000ポンドを広告予算に計上したが、これは現在の300万ポンド(約4億円)に相当する額だ。パティソンの広告は、従来のロマンティックな路線から逸脱して、深海のダイバーのような人目を引く興味深いイメージや王家のパワーの象徴などを採用した。印刷物への広告の他に、グラスウェア、ミラー、ブランド名を冠したサイクリングマップなどの商材をウイスキーに紐付けたのも斬新だった。もっとも奇抜なマーケティング作戦のひとつは、彼らがアフリカ原産のオウムを500羽も購入して1羽ずつ酒屋に届けたこと。オウムはあらかじめ「パティソンのウイスキーを買ってね!」などのスローガンを店頭で声高らかに訴えるよう教えこまれていた。このオウムはパティソンの印刷広告のモチーフとしても使用され、「優れた品質は、それ自体が雄弁である」というモットーが添えられていた。

スコッチウイスキーの広告は、近代産業の誕生から1914年にかけて大きな進化を遂げた。家族経営の商店に貼りだされたシンプルな価格表から、視覚的に印象的なブランドイメージへの発信と姿を変えたのだ。第1次世界大戦の前夜までには、多くのスコッチブランドがエドワード7世時代のスポーツ愛好家層にぴったりのチョイスであるというイメージで塗り立てられた。広告主は、あらゆる富の象徴を広告スペースに詰め込もうとした。ゴルフクラブからツイードの服まで、ポスターからトランプの柄などにも採用したのである。

だが1914年に第1次世界大戦が勃発すると、当時スコットランドにあった133の蒸溜所は大きな試練の時を迎える。当時の首相であったデビッド・ロイド・ジョージ氏は、アルコールが嫌いだった。ウイスキー業界は彼が主導する苛烈な増税政策の矢面に立ち、中央集権的な監理委員会の規制に耐えなければならなくなった。大きな変革のひとつは、熟成3年未満のウイスキーの流通を禁ずるというもの。熟成年の短いスピリッツが過剰なアルコール依存症の元凶になっているという考えから、気まぐれで引かれた基準だ。この結果、ウイスキーの売り上げが減って、1年以内に20の蒸溜所が閉鎖に追い込まれた。

図2:酒が嫌いだったデビッド・ロイド・ジョージ首相の増税政策に、真っ向から異を唱えたヘイグ&ヘイグの意見広告。兵士たちが酒を買えないという庶民感情を持ち出して不公平感を訴えている。

ウイスキーメーカー各社は、広告を使ってそんな政策に憤りを表明した。J&Gスチュワートは、このいわゆる「低熟成スピリッツ法」のせいで、消費者たちの負担が増えると不満を訴えた。「庶民に酒はないが、スチュワート家にはたっぷりと在庫がある」といったメッセージの広告である。

また卸売販売業者が1916年に取り引き実績があった相手だけにしか販売できないというルールができたことを受けて、ヘイグ&ヘイグはこのような規制の強化に対する不平をぶちまけた。こんなルールに従うと、外国で戦っている兵士たちが帰郷したときにウイスキーを買えない事態になってしまう。誠実な人々はこの規制に反対して、兵士たちの分け前を確保するだろうと広告を打ったのである。ヘイグ&ヘイグは戦後の1922年にも不公平な税制に 反対する広告を週刊誌「パンチ」に出し続けた(図2)。

 

戦時のウイスキー広告

 

図3:兵士の輸送に使用されたバス「オールドビル」にもデュワーズの広告が掲示された。英国兵はもちろん、敵の部隊にもロゴは露出されたはずである。

戦時中には、ウイスキーブランドも時代の流れに沿って広告のトーンを変えた。世の人々の気分にあわせて、前向きで愛国的なメッセージを強調したのである。デュワーズは戦闘機のパイロットをフィーチャーしたポスターを貼りだし、「デュワーズならどこまでも飛べる」とスローガンを打った。

だが戦時中でもっとも大胆な広告は「オールドビル」という名のバスに掲示されたものだろう。オールドビルは戦争初期にフランスに送り出された戦隊の一部にもなったバスで、月明かりの砂利道を進んで前線に部隊を運びながら、敵にも味方にも隔てなくブランド広告を露出したのである(図3)。

ジョニーウォーカーの象徴であるストライディングマンは、アーティストのレオ・チェイニーの作品である。広告の一部は漫画スタイルで作られ、パンチ誌などの編集方針にぴったりの形で掲載された。ストライディングマンが新兵採用担当の軍曹を訪ねて「採用状況はいかが?」と問えば、

>図4:ジョニーウォーカーの「ストライディングマン」も戦時広告の一部に。一コマ漫画のスタイルが、週刊誌の誌面にぴったりだった。

「貴殿のようにまだまだ上々だ」と答えるといった内容である(図4)。

当時のイラストレイテド・ロンドン・ニュース、スフィア、ブキャナン&COなどは、ツェッペリン型飛行船を下から照らしだす駆逐艦など、戦時中のイメージ鮮やかに描いた広告を明確に打ち出している。アッシャーズはさらに直接的な表現を用い、ブランドと巡洋戦艦ライオン号のイメージを強固に結びつけた。アッシャーが暗にアピールしたかったのは、同社がスコットランド随一の原酒ストックを保持しているという事実であった。戦争によって原酒の在庫が打撃を受けている現状を踏まえながらも、自社ブランドが今でも戦前の品質と強さを保っていることを熱心に強調したがる広告主は多かった。

次回は禁酒運動、禁酒法、さらには大戦の間に勃興したライフスタイル広告などを振り返る。

 

 

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