開業直前レポート(3):静岡蒸溜所【前半/全2回】

August 12, 2016

開業直前レポートの第3弾は、この秋に開業する静岡蒸溜所。ガイアフロー株式会社代表取締役の中村大航氏に、蒸溜所設立の構想から実現に至るまでのドラマチックな経緯をうかがった。

文・写真:ステファン・ヴァン・エイケン

 

静岡蒸溜所の周囲には美しい森が広がっている。建物の内部からも自然が感じられる建築デザインが魅力だ。

中村大航氏は、大学時代から高級酒のマニアだった。さまざまなタイプの酒の味をおぼえ、ウイスキー、ワイン、日本酒などの生産工程にも強い関心を抱くようになったのだという。そんな彼の胸中でウイスキーづくりに参入する意欲が湧き上がったのは、2012年6月にアイラ島(とジュラ島)を旅行したときのこと。中村氏にとって初めてのスコットランド旅行であった。

4日間の旅の最後に立ち寄ったのが、当時アイラでもっとも新しい蒸溜所だったキルホーマン蒸溜所。設立から数年間で確固たる評価を築いていたキルホーマンに、中村氏はある種の先入観を抱いていた。きっとこの新進気鋭の蒸溜所は、自動化された設備で効率よく ウイスキーを生産しているのだろう。だが実際の蒸溜所を見て、中村氏は驚くことになる。キルホーマンは小規模のファームディスティラリーで、小さな貯蔵庫がひとつあるのみ。少人数ですべての運営をまかなっていた。

キルホーマン蒸溜所の庭で腰を下ろしながら、中村氏はふと気づいた。このやり方は、日本のさまざまな酒蔵でおこなわれている日本酒造りにも通じるアプローチだ。自分が細部までに手を下せる小規模な生産ラインで、手づくりのウイスキー蒸溜所を建設できるのではないか。そんな計画の種子が、このとき彼の頭のなかに植え付けられたのである。

スコットランドの旅から帰国した中村氏は、自分の計画を遂行するために思いを巡らせた。まずは誰にアドバイスを乞うべきか。同様の事業を、近年の日本で実現させた人物は一人しかいない。それは肥土伊知郎氏だ。中村氏は初開催された大阪ウイスキーフェスティバルで肥土氏に会い、秩父蒸溜所を訪ねて、肥土氏から得たたくさんの助言をもとにビジネスプランを描きはじめた。

秩父蒸溜所とは決定的な違いもあった。中村氏には肥土氏のように過去のウイスキーベンチャー(羽生蒸溜所)のストックやブランド(イチローズモルト)がなく、完全にゼロから蒸溜所を新設することになる。日本の飲料市場に参入する足がかりとして、中村氏はまず洋酒の輸入会社を設立しようと考えた。そこで2012年1月に設立していた再生可能エネルギー関連企業「ガイアフロー」を再構成して、輸入酒部門を中心に会社全体の 事業目的を変更したのである。

中村氏は地元の税務署を訪れ、静岡でウイスキーづくりを始めるという計画を伝えた。そのときの税吏たちの顔をよくおぼえている。彼らは中村氏の言っていることがまったく信じられないといった様子だった。

その後の4年間で、中村氏は国内外のウイスキー蒸溜所、ビール醸造所、ワイナリーなどを170軒以上見学した。その傍らで、自分の蒸溜所の建設地も探し続けていた。一番の希望は、生まれ育った静岡市に生産拠点を設立すること。しかしそんな望みが叶う可能性は低いこともわかっていた。静岡市は山がちで、蒸溜所のような施設を建設できる平地は高価になる。居ても立ってもいられない中村氏は、静岡県内の他地域や、隣の山梨県と長野県でも候補地を探した。

ただ時間だけが過ぎていくように思えた。肥土氏からもらった助言のひとつに、「蒸溜所の建設を一歩ずつ進めようとするな」というものがあった。一歩一歩、足下を固めてから進もうとすると夢の実現から遠ざかる。肥土氏によると、何事も平行して進める必要があるのだという。A、B、Cと順番にやるのではなく、AとBとCを同時に進めていく。たとえBとCの進行がA次第だとしても、そうやって同時進行したほうがうまくいくというアドバイスだった。

 

運命の導きで建設地と出会う

 

軽井沢蒸溜所で使用されていた、ポーティアス社製のモルトミル。元の管理者である内堀修省氏によると、落札価格の4倍ほどの価値がある。

2014年5月、中村氏はスコットランドのフォーサイス社に2基のポットスチルを注文した。その時点ではまだ蒸溜所の建設地が見つかっていなかったが、納期まで2年あるし、肥土氏のアドバイスもおぼえていた。その1ヶ月後、中村氏は念願の建設地を見つけることになる。しかも場所は当初の希望だった静岡市内の玉川地区である。

その土地は、1990年代に丘陵地を削って平地を確保した場所だ。この約20年間、土地の利用法についてさまざまなアイデアが検討されたが、どれも実現はしなかった。そして中村氏は知る由もなかったが、この静岡市が所有する土地 の担当者は大のウイスキーファンだった。後に自分で秩父蒸溜所を訪ね、この土地に小さなウイスキー蒸溜所が建ったら素晴らしいだろうと夢を見るような人物だったのである。中村氏が問い合わせを入れたとき、まさに運命の扉が開いた。その土地は、2人の男の夢がひとつになって叶うのを、じっと何年も待ち続けていたかのようにも思えたのだ。

建設地を見つけ、ウイスキー蒸溜所を建設する許可が当局から下りた。ほどなく中村氏は、ガイアフローディスティリング株式会社を設立した。

蒸溜所の建築デザインについていえば、中村氏はシンプルでモダンなデザインが希望だった。彼はデレック・バストン氏が率いる静岡市の建築事務所、株式会社ウエストコーストに連絡をとり、いくつかの案を出してもらった。バストン氏の建築プランを見た瞬間に、中村氏は自分とバストン氏の波長がぴったりであると確信した。

2015年、中村氏は軽井沢蒸溜所の中古設備を御代田市主催の競売で落札して購入。価格は505万円だった。軽井沢蒸溜所は閉鎖して取り壊されることになっており(2016年に工事完了)、まだ使える設備の行き先を探していたのである。2000年以来ウイスキーづくりを休止していた軽井沢蒸溜所に、現役で活躍できる設備が少ないのは明らかだった。ウォッシュバックは腐敗し、マッシュタンはサビだらけ。それでもいくつかの機器が、静岡蒸溜所で第二の生命をつなぐのに十分な状態で残されていた。

開業後、真っ先に稼働する予定のウォッシュスチルは、軽井沢蒸溜所から移設した年代物。日本のウイスキーづくりの歴史は、この静岡の地で受け継がれる。

軽井沢蒸溜所にあったポットスチル4基のうち、もっとも新しい1基が修理され、静岡蒸溜所で新しい加熱装置が取り付けられた。軽井沢蒸溜所から重要な移設品はもうひとつある。ポーティアス社製のモルトミルだ。軽井沢蒸溜所の最後のモルトマスターである内堀修省氏によると、この粉砕機は1989年に軽井沢蒸溜所が導入したもの。当時はすでに軽井沢蒸溜所の晩年にあたり、生産量も減って稼働量も限られていた。このモルトミルの価値は、落札額の4倍はあるだろうと内堀氏が証言している。中村氏にとっては素晴らしい買い物だったわけである。

軽井沢蒸溜所から静岡蒸溜所に移設され、引き続き使用される機器は他にもある。粉砕前に石などを取り除くデストーナーや、樽にタガをはめる機械だ。もうウイスキーづくりには使えないが、歴史的な価値のある軽井沢蒸溜所の設備(3基のポットスチルなど)も引き取り、静岡蒸溜所内で展示される予定である。

(つづく)

 

 

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