オーストラリアのメルボルンで、2007年に創業したスターワード蒸溜所。そのユニークな魅力の背景には、ワイン王国ならではの樽熟成があった。ウイスキー新大陸からお届けする2回シリーズ。

文:ジェイソン・ハンブリー

 

オーストラリア産ウイスキーは、最近まで巨大なライバルがいた。それは圧倒的な人気を誇るオーストラリア産ワインである。国内市場では日陰を歩いてきた感もあるウイスキーだが、ここにきてようやくワインに匹敵する注目を浴びるようになってきた。

現代オーストラリアのウイスキーづくりは、タスマニアから始まった。その先駆けととなった蒸溜所からは、神秘的な大自然が一望できる。

この国で静かにウイスキーづくりを続けてきたパイオニア的メーカー各社にとっては、長年にわたる努力がやっと実を結んでいる状況だ。そしてオーストラリアンウイスキーの人気上昇に一役買っているのは、他ならぬワインである。ウイスキーづくりにワインの繊細さを取り入れた画期的なアプローチが着々と好評を博しているのだ。

「この国でウイスキーをつくるのは大変だったよ。なにせ当時は、ウイスキーをつくるためにオーストラリアで最小の石炭採掘会社を創業しなければならなかったんだからね」

そう語りながら、ビル・ラークが微笑む。タスマニア産のピートでウイスキーをつくろうとした草創期の思い出だ。タスマニア産のピートが欲しければ、地面を掘り起こさなければならない。地面を掘り起こすには、石炭や鉱物と同様の採掘許可が必要だ。現在あるオーストラリアのウイスキー業界は、そんな奇妙な難題を突きつけられながら事業を始めた。同じような逸話はいくらでもあるという。

かつてこの国には、数軒の大規模なウイスキー蒸溜所が存在した時代もあった。だがオーストラリアのウイスキー生産は、1980年代までにほぼ壊滅状態といえるほど衰退してしまう。そんな中で、ただひとつの例外がタスマニアの新しいウイスキーづくりだった。その立役者が、ビル・ラークとリン・ラークの夫妻である。

タスマニアでウイスキーづくりを学び、食とワインの都メルボルンで事業を始めたスターワード蒸溜所。併設されたバーは人気の場所だ。

当時のオーストラリアにおけるスピリッツの生産と消費はラムに集中していた。それにオーストラリアの酒税法では、ウォッシュスチル(初溜釜)のサイズが700ガロン(約3200L) 以上でなければならないという規制もあった。このサイズは、ウイスキーづくりにとって大きすぎる。このように厄介なルールが邪魔をして、ウイスキーを愛する起業家たちの市場参入を拒んでいたのだ。

だがビル・ラークの覚悟は違った。地元の政治家に働きかけて法律を改正し、現在もよく知られる重要なウイスキーメーカー各社が市場参入できる環境を整えたのだ。1992年にラーク蒸溜所が設立され、まもなくオーフレイム、サリヴァンズ・コーヴ、ヘリヤーズ・ロードといった有名なタスマニアの蒸溜所が後に続いた。

現在では、タスマニアにある50軒以上の蒸溜所がジン、ブランデー、ラム、ウイスキーを生産している。オーストラリアのウイスキー業界にとって、タスマニアは心の故郷のような場所になった。ウイスキーを目当てに、この島を訪れるファンや観光客も増加傾向にある。
 

タスマニアで始まったウイスキーづくりの物語

 
オーストラリアの南岸沖に浮かぶタスマニア島でつくられるウイスキーは、オイリーな酒質のスピリッツと小型樽熟成による力強いフルーツ香で知られている。このようなスタイルを可能にしている要因のひとつが、オーストラリア産のトウニー樽である。

タスマニアのウイスキーはトウニー樽熟成を多用するが、スターワードは赤ワイン樽が中心。そこにはオーストラリアならでは事情がある。

トウニーはポートと同様のスタイルで造られる酒精強化ワインだ。このトウニーを貯蔵していた樽からワインの残存物を取り除き、リチャー(樽内面への焼き付け)をほどこすことによってウイスキー熟成用の樽に造り変える。サイズは小型のバレルであり、フルーティで、リッチで、ウッディな特性をウイスキーに授けてくれる。

デーヴィッド・ヴィターレは、ウイスキーづくりのキャリアをタスマニアのラーク蒸溜所でスタートさせた。 彼をタスマニアに連れてきたのは妻だったという。

「君のためなら、世界の果てにだって行ってやる。そう言ったら、本当に世界の果てまで連れていかれたんですよ(笑)」

ヴィターレはこの地でクラフトビールを造りたいと考えていた。だがタスマニアという特殊なロケーションが大きく立ちはだかる。主要な消費地へ運ぶのに長い時間がかかり、その間にビールのフレーバーが損なわれてしまうからだ。

そんなある日、ヴィターレはたまたまラーク蒸溜所に立ち寄ってウイスキーをテイスティングしてみた。クラフトビールはやめて、ウイスキーにしよう。目標を大転換したヴィターレは、すぐにビル・ラークに頼み込んで雇ってもらった。

その数年後、ヴィターレがラーク蒸溜所を後にして、自分自身の蒸溜所を建設するときがやってきた。場所はタスマニアではなく、メルボルンだ。オーストラリアで隆盛しているコーヒーと美食文化の中心である。ヴィターレは当時の決断を振り返る。

「オーストラリアの美食やワインシーンの中心地から、なるべく近い場所でウイスキーをつくりたかった。スコッチウイスキーにもそんな場所があるように、オーストラリアンウイスキーの求心力となるような場所を作っていきたいと考えたんです」
(つづく)