スピリッツ蒸溜の歴史(3)ウイスキー以前のブリテン諸島
文:クリス・ミドルトン
イングランドに蒸溜技術が伝わったのは12世紀のことだ。オックスフォード大学のロジャー・ベーコンが、1366年の『大著作(Opus Majur)』で蒸溜について記述している。14世紀までには、大修道院、薬屋、錬金術師が蒸溜技術を活用し、万能薬やストロングウォーターを王国中で蒸溜していた。1404年1月にヘンリー4世が錬金術と蒸溜を禁止し、孫のヘンリー6世が禁を解く1444年まで続いたこともある。
スピリッツは社交の場で嗜まれるお酒のひとつとして、現在に至るまでビールやワインと競ってきた。ロンドンのジェフリー・チョーサーは、1388年に著した『カンタベリー物語』の「僧の従者の話」でアランビック型の蒸溜器について触れている。これは当時から自宅でおこなわれていた小規模な蒸溜ビジネスの実情をチョーサーがよく知っていた証左である。
海を挟んだアイルランドでは、ビールづくりの伝統が国内業界に移行している最中だった。リチャード・マクランネルという男が、1405年のクリスマスの日にアクアヴィータを大量に飲んだ後に死亡したという最古の記録が残っている。
探検家のファインズ・モリソンは、 1590年のアイルランドではアクアヴィータとウシュクベーハのどちらが美味しいかという問題で論争があったと記している。モリソン自身が好んだのはウシュクベーハで、これは穀物のスピリッツにレーズンやフェンネルなどで風味を加えたものだった。
スコットランドでも同様にスパイス、ハーブ、ハチミツなどを加えて風味や甘みを増したウィシュケバーが生産されていた。当時は飲んでいるアルコール飲料を見ればその人の階級がわかったという。貴族、聖職者、紳士階級は輸入ワインを購入できる財力があった。古くて味が落ちたり、大量に余ってしまった場合は、ワインを蒸溜してアクアヴィータをつくることができた。
一方、農民の手が届くのはエールかビールだけで、日々の栄養補給、健康効果、楽しみなどを目的に毎日醸造されていた。そこに小さな蒸溜器があれば、余ったエールは蒸溜して、フレーバーを加えたウィシュケバーにすることができた。ビールは数日で味が落ちてしまうが、蒸溜酒なら後から飲んだり売ったりもできる。1ブッシェル(約36L)のオート麦、小麦、大麦モルトからは平均して7.5ガロン(約34L)の良質なエールができる。これを2回蒸溜すると、度数50%のスピリッツが1ガロン(4.5L)以上得られた。
ウイスキー時代前夜のスコットランド
ブリテン諸島の中で、イングランドの次に穀物の蒸溜に関する記録が残されているのはスコットランドだ。スコットランド王ジェームス4世が、1495年6月に大麦モルト原料のアクアヴィータを注文した記録が残っている。発注先はファイフのリンドーズアビーに住むジョン・コーズ神父だった。その5年後、ジェームズ4世はスターリング城内に研究室を設け「偉大な蒸溜家のジョン・ダミアンが3回蒸溜のアクアヴィータをつくった」と記録している。
1505年7月、エディンバラの外科医および理髪店組合は、エディンバラ市内でアクアヴィータを蒸溜して販売する公的な独占権を取得した。アクアヴィータの蒸溜はすでに一般的な技術としてブリテン諸島に広まっており、穀物原料のスピリッツはどこでも飲まれていた。16世紀の蒸溜器が登場するまで、自宅で使用する蒸溜器は平均4〜5ガロン(約18〜23L)のスピリッツを生産できた。大邸宅や居酒屋で使用する蒸溜器は30〜40ガロン(約136~182L)だった。
スコットランドで最初の商業的な蒸溜所は、フェリントッシュ農場に併設された醸造所兼蒸溜所である。1690年にダンカン・フォーブズが再建したが、やはり40ガロン(約182L)程度の蒸溜器を使ってアクアヴィータをつくっていた。19世紀まで、ロンドンは英国のにおける蒸溜の中心地だった。モルト原料のスピリッツを大量に生産していたが、その使途はジン、イングリッシュブランデー、ストロングウォーターだった。
またロンドンはイノベーションを競い合う場所であった。1635年、ロンドンのディスティラーズ・カンパニーのテオドール・ド・マイエルヌが、ストロングウォーターの専売特許を初めて取得。1692年6月には、ジョン・タサムが製造機械の専売特許を初めて取得した。
18世紀の産業革命は、その後の製造業すべてを変貌させることになる。ウイスキー業界も例外ではない。アイルランド、スコットランド、北米では、ウイスキー時代の幕開けに向けた地ならしが完了した。
(つづく)