空前の蒸溜所設立ブームから、百花繚乱のスタイルが競い合う時代へ。変わり続けるアメリカンウイスキーの現在を紹介する2回シリーズ。

文:マギー・キンバール

何十年もの間、米国で地理的に定義されるウイスキーといえば、ケンタッキーバーボンとテネシーウイスキーで決まりだった。だが歴史上、消費者にとって容易に認識できるアメリカンウイスキーがこの 2 種類だけであったと考えるのは早計である。時代を遡れば、かつてはペンシルベニア産のライウイスキーのほうがよく知られていた時もある。その前はコーンウイスキーが米国産ウイスキーの王者だった。

25年間途絶えていたペンシルベニアライウイスキーの伝統を復活させたダッズハット蒸溜所。アメリカのライウイスキーには、バーボンよりも古い歴史がある。メイン写真はテキサスのバルコネス蒸溜所がつくるライウイスキー。

そして現在、何十年にもわたるウイスキーづくりの伝統を土台に、クラフト蒸溜所の設立ブームがアメリカ全土で起こっている。そのおかげで、新しい地域限定ウイスキーのスタイルが生まれつつある状況だ。バーボンに詳しい歴史家のマイケル・ヴィーチは、次のように説明している。

「南部を中心とするアメリカの多くの地域では、いまだに未熟成のコーンウイスキーが好まれています。コーンウイスキーには、未熟成のコーンウイスキーもあれば、熟成されたコーンウイスキーもあります。今でも「ジョージアムーン」といった未熟成のコーンウイスキーがまだ市場に出回っているし、『メローコーン』や『バルコネス・ベイビーブルー』のように熟成したコーンウイスキーもあるのは歴史のなごりです」

バーボンとテネシーウイスキーの愛好家も、両スタイルの共通の祖先がコーンウイスキーであることに気づいていない人は多い。コーンウイスキーが製造されるようになったのは、まずアメリカ南部という土地がコーンの栽培に適しているからだ。しかしそれだけではない。この地域は湿度が高く、収穫した穀物にカビが発生してしまう。これを防ぐために、合理的な貯蔵方法が必要であったという事情からウイスキーが生まれたのだ。収穫したコーンの余剰分を保存する方法として蒸溜酒が選ばれ、それが歴史となった。ヴィーチは説明する。

「バーボンの中でも、よく調べてみれば実にさまざまなスタイルがあります。多くの人が気づいていないことでもあるのですが、バーボンは明らかにコーンウィスキーの下位カテゴリー。テネシーウィスキーも同様です」

バーボンよりも古いライウイスキーの伝統

アメリカ南東部のウイスキースタイルはコーンをベースにしているが、米国北東部ではウイスキーの原料としてライ麦が最も多く使われている。ライウイスキーといえば、ペンシルベニアライ、モモンガヘラライ、メリーランドライ、ケンタッキーライ、インディアナライなどの名前が頭に浮かぶだろう。それぞれのライウイスキーには、地域ごとのスタイルがあるように思われる。しかしヴィーチによると、産地ごとの違いは多くがマーケティング上の必要に起因するものだという。

東海岸の北部で主流だったライウイスキーは、南部ケンタッキーのバーボンメーカーにも受け継がれた。だがケンタッキーはあくまでコーンを主体としながらライをミックスするスタイルが中心だ。

「モモンガヘラライは、ペンシルベニアライや単にライウイスキーに別の名前をつけたに過ぎません。ライウイスキーの歴史はバーボンよりずっと古く、もともとはペンシルベニア州で定着してきたスタイルです。原料となる穀物は、ほとんどが自分たちで育てたライ麦でした」

モモンガヘラライウイスキーに使用されていた原料は、ライ麦と大麦モルトの2種類だったのではないかとだろうとヴィーチは考えている。だがそんなヴィーチ自身も、1700年代や1800年代前半のペンシルベニアで実践されていたマッシュビルの内容について確認できたことがないという。

「メリーランドライというスタイルは、メリーランド州でライウイスキーをつくっていた多くの人々が、ペンシルベニア州からウイスキーを買っていたことから発展しました。メリーランドライのメーカーは、蒸溜ではなく精溜によって自分たちのウイスキーをつくっていたのです。購入したペンシルベニアのライウイスキーに、プルーンやチェリーの果汁でフレーバーを加えて、メリーランドライと呼ばれる独自のスタイルに仕上げました。それは通常よりも甘口のライウイスキーで、今日でいうブレンデッドウイスキーのようなものだったといえるでしょう」

しかし精溜器で果汁や他の合成原料などを添加するスタイルは、やがて消費者保護法の制定によって問題視されることになる。「純粋なウイスキー」や「本物のウイスキー」を消費者に提供するため、果汁などの添加物を入れることが禁止されるようになった経緯をヴィーチは説明する。

「純粋食品医薬品法(Pure Food and Drug Act)により、そのような添加物はほとんど姿を消しました。他所のウイスキーを精溜しているというウイスキーづくりも悪評を呼び、メリーランドライの売り上げが激減したのです。そこでメリーランドライは定義を変更し、マッシュビルにコーンを加えて甘みを増やす路線に転じました」

自由な西海岸のカルチャーからは、アメリカンシングルモルトの潮流が目覚めつつある。アメリカはその国土と同様にウイスキー文化も極めて多様だ。

そんなことがあるまで、ライウイスキーのマッシュビルにコーンを入れるような実例はなかった。それが今日では、信じられないほど一般的なライウイスキーのスタイルとして定着している。

やがてメリーランド州でウイスキーの生産が終了し、コーンを使用した新バージョンのライウイスキーがケンタッキー州で生産されるようになった。だがその一方で、メリーランド州やケンタッキー州のライウイスキーが確立する前から、ケンタッキー州でもライウイスキーはつくられていたという事実についてヴィーチは説明する。

「メリーランドに行ってケンタッキーのライウイスキーを紹介すれば、現地の人たちは『これはもともとメリーランドのスタイルだ』と言うでしょう。でもケンタッキーでは禁酒法以前の19世紀からライウイスキーがつくられていたものの、主力はバーボンだったので量は多くありませんでした」

当時も現在と同じように、多くの大手ブランドがライウイスキーのオプションを持っていたとヴィーチは指摘する。歴史的な事例のひとつとして、古い「オールドクロウライ」のボトルを見たこともある。ただしケンタッキーのライウイスキーは、禁酒法以前に各蒸溜所が生産していたウイスキーのごく一部に過ぎない。

禁酒法以降、ライウイスキーの製造は難しくなった。ペンシルベニア州やメリーランド州の蒸溜所が次々と閉鎖され、ウイスキーのジャンルとして衰退し始める。そのため1970年代になると、もうライウイスキーを専門につくっている蒸溜所はほとんどなくなっていた。

「ケンタッキーに蒸溜所を所有する企業たちが、衰退するライウイスキーのブランドを支援するため、ケンタッキーでライウイスキーをつくり始めました。それでもやはり、生産量は相変わらず微々たるもの。ジミー・ラッセル(ワイルドターキーのマスターディスティラー)から聞いた話をまだ覚えています。『あるときライウイスキーの生産量を3倍にしたんだ。以前は年に1日だけだったけど、今じゃ年に3日はつくっているよ』と言ってましたね」

そしてアメリカのウイスキー市場は停滞して底を割り、国内のウイスキー産地は不可逆的に変化した。

「1930〜1940年代にかけて、メリーランドのスタイルとして知られていたライウイスキーが、ケンタッキーのスタイルとして定着したんです。1970〜1980年代になると、メリーランド州でライウイスキーをつくる蒸溜所がなくなったため、ライウイスキーがケンタッキー流のスタイルに変化していきました。でも失われたはずのメリーランド流のライウイスキーは、今になって復活しつつあるのです」(つづく)