人類はいつからスピリッツの魅力に取りつかれたのだろうか。クリストファー・コーツが、有史以前のウシュクベーハーをめぐる時間旅行へご案内。

文:クリストファー・コーツ

 

旧約聖書に書かれたノアの大洪水の前に、人類初のウイスキーを蒸溜したのは誰だったのだろう。人類で初めて蒸溜器を製造した人も、その蒸溜器で初めてビールを蒸溜した人も、はるか昔すぎて特定することはできない。人類史をたどると、蒸溜はメソポタミアで始まったことになっている。事実メソポタミア文明では、新石器時代の農業革命によってビールの醸造も広くおこなわれていた。

ビール造りが始まったのは、13,000年以上前の中東地域である。ラテン語で「スピリトゥス・フルメンティ」と呼ばれるグレーンスピリッツは、ビールを蒸溜したものに違いない。ウバイド期後期からウルク期 にかけて、肥沃な三日月地帯でシュメール人が土器の蒸溜器を製造している。だからおよそ6000年前に人類最初のスピリッツ蒸溜がおこなわれたと考えるのが妥当なのだ。

これはアイルランドやスコットランドに住むゲール人がビールを蒸溜し、「ウシュクベーハー」(命の水)をつくり始めた時期より数千年も前のことだ。ウシュクベーハーが英語化されてウイスキーと呼ばれるようになったのは18世紀の頃。だが太古のウイスキーは、中東にそのルーツがある。

イラク北西部にある古代遺跡テペ・ガウラでは、紀元前3,500年頃に陶器で造られたポットスチルが出土している。蒸気を液化させる円錐形のヘッドを戴き、蒸溜液を誘導する複数のリムが備え付けられている。青銅器時代以前は、この焼成粘土で造られた蒸溜器がエジプトのナイル川沿岸から地中海東部にも広まっていた。

メソポタミアやエジプトでは、一般の家庭でも日常的にビールが醸造されて消費されていた。原始的な蒸溜器は香水や薬をつくったり、ビールやワインから持ち運びやすい飲料をつくったりするのに使われていたと見られている。

初期の蒸溜器でつくられた蒸溜液は、そのまま飲んで美味しいものではなかっただろう。だがスピリッツは飲むときに水で割って薄められるので、健康を害するような飲まれ方をしている訳でもなかった。蒸溜した古代のワインは、ローマ時代でも1:9程度の割合で加水されるのが普通だった。これは健康を損ねる危険性を少しでも減らすためである。時にはビールやワインでフレーバーを付けるなど、添加物を入れて不快な風味を隠すような工夫もなされていた。蒸溜酒が消費されたのは、主に宗教、医療、社交などに関連する用途である。

 

文明とともに進化したスピリッツの歴史

 

今から約4000年前、ミノア文明時代のクレテ島で、人類初の円柱型蒸溜装置「ファイトス蒸溜器」が誕生する。縦に区切られた3つの部屋の間にストレーナー(濾し器)が備え付けられ、蒸気から発酵液を抽出することで香水やスピリッツをつくる構造だ。原理は現代のコラム型スチルと同じである。

考古学者たちの仮説によると、ミノア人たちはワインやブドウの残滓も蒸溜していた。これはクレタ島で今も飲まれているラキ酒「チコウディア」の原型であると考えられる。エーゲ海一帯に広まっていたピュロス型蒸溜器は、 アランビック型でおなじみのククルビット(蒸溜瓶)を備えたタイプだった。この方式の蒸溜器は、紀元前450年までにインダス川流域で出現している。

紀元前2,000年頃のアナトリアでは、ヒッタイト人が噴き出し口の付いたボウル型の蒸溜器を発明した。この蒸溜器は、外形がティーポットのように見える。取外し可能な円錐形のヘッドが付いているところは、エーゲ海の島々で使われていたピュロス型蒸溜器の構造にも似ている。同様の構造は、紀元300年頃に錬金術師ゾシモフが製造したアレキサンドリア式蒸溜器でも模倣されている。

欧州の蒸溜の歴史を遡ると、その出発点は紀元1150年頃にある。イタリアのサレルノから、修道会、職人ギルド、専門薬剤師などの人々が神聖ローマ帝国内で技術を拡散させた。ビールの蒸溜はドイツ各地の公国で始まり、14世紀半ばまでにブリテン諸島に伝播していった。

北米大陸でイギリスからの入植者がテレビン油を初めて蒸溜したのは1608年のこと。場所はバージニア州のジェームズタウンだった。入植地で1607年に建てられたガラス鋳造所では、それから数年のうちにレトルトと呼ばれる蒸溜器で糖化した穀物を蒸溜していた。

中国の河南省では、アジアで最初のアルコール飲料が9000年前から飲まれていた。そして4000年前頃、古代ギリシャの蒸溜技術が中国にも浸透すると、スチームで加熱するギリシャ風の陶器製三脚付き蒸溜器を改良して火酒をつくり始めた。

それから2000年後、中国の冶金家たちは、かつて陶器で造っていた古いタイプの蒸溜器を青銅や純銅で造りなおし、ワイン、米、大麦などを原料とするマッシュから蒸溜酒をつくった。ボタニカルでフレーバーが付けられた複合的なスピリッツは、18世紀後半までアイルランドやスコットランドでつくられていたウイスキーのプロトタイプにもよく似ている。

中世のアイルランドやスコットランドでは、「アクアビテ」(命の水)と呼ばれる未加工の蒸溜酒にフレーバーや甘味を加えることで、飲みやすくしたり療養目的の使用にも役立てるようにしていた。やがて上質な穀物の蒸溜酒がオーク材の容器で貯蔵されるようになり、近代のウイスキーが出現する。現在の私たちがウイスキーと呼ぶドリンクには、6000年以上もの進化の歴史があるのだ。