スコッチウイスキー業界で勤続60周年。グレングラントのマスターディスティラー、デニス・マルコムが稀有な人生の道のりを振り返る2回シリーズ。

文:クリストファー・コーツ

 

グレングラントのマスターディスティラーといえば、デニス・マルコム。このたびウイスキー業界での勤続60周年という功績を記念して、半生を振り返ったドキュメンタリー映画『ア・ライフ・イン・ウイスキー:デニス・マルコムの物語』が公開された。製作元である英国のウイスキーマガジンには、スコッチウイスキーを愛する世界中の人々から大きな反響が寄せられている。

ウイスキーファン、バーテンダー、ブランドアンバサダー、スペイサイド地域の人々など、多くの人々がSNSのメッセージでデニスへの敬意を表明してくれた。その一人ひとりが、自分の人生とデニスを重ね合わせるようにして、それぞれの逸話を披露していることも興味深い。なかには「これまで誰もデニスの人生を映画化しようと考えなかったこと自体が信じられない」という意見もあった。

蒸溜所のすぐそばで生まれ育ち、祖父や父の後を追ってウイスキーづくりの世界に入ったデニス・マルコム。世界が変わっても、ロセスの豊かな風土は昔から変わらない。

デニス・マルコムは、疑いもなくスコッチウイスキー業界を代表する人物の一人だ。蒸溜所の敷地内にある小さな家で生まれ育ち、やがてその蒸溜所長を務めるようになり、スコッチウイスキー業界を背負って立つような活躍を納めた後、再びマスターディスティラーとして故郷の蒸溜所に帰ってくる。そんな珍しい運命を辿ってきたことでも有名だ。

つい運命という言葉を使ってしまったが、スコッチウイスキーの世界に足を踏み入れたら最後、そこに生涯の仕事を見つける人は大勢いる。デニス・マルコムもまた、そんな一人に過ぎないのかもしれない。

デニスが生まれた1946年の当時、すでにスコッチウイスキーはスペイサイド地方の経済や文化を潤す血脈のような産業だった。そればかりではなく、小さなロセスの町ではたくさんの家族にとってウイスキーは極めて身近な存在だった。世代と世代をつなぐ絆までをウイスキーが体現していたのである。少年時代を思い出しながら、デニスが当時のロセスについて語りだす。

「ロセスの人口は1500人ほど。町には5軒の蒸溜所と4軒のパブがありました。小さい町だけど、みんなこのくらいの数が完璧なバランスだと感じていたんです」

共通の歴史と経験によって、固く結ばれた地域社会。ウイスキーの生産に直接従事していない人でも、ウイスキー関連の仕事で生計を立てている人は多かった。樽工房でハンマーを振るい、樽材を組み上げる人々。マレイ平野の広大な農場で、大麦を育てる人々。そんな日々のあらゆる仕事が、ウイスキーづくりにつながっていた。

夏になると、丘のはざまで香り高いピートの採掘に駆り出される者もあった。当時のスペイサイドでは、製麦時に大麦が軽くピートで燻されることも多かったのだ。

「町の男たちは、みんなトラクター1台分のピートを受け取っていたものです。ピートは燃料になるし、冬季を暖かく過ごすために暖炉でも使われていましたから」

今では暖炉でピートを焚くのが趣味人のたしなみと思われているようだが、当時は自宅の暖炉で実用的な燃料として重宝していたのである。

 

家族の後を追ってウイスキーの世界へ

 

だがまだ子供だったデニスは、まだそんなピートの匂いをウイスキーづくりと関連付けることもなかったという。ロセスの広場で大人数の草サッカーに興じたり、ボーイズ・ブリゲイド(少年団)でラッパを吹いたり、近所の川で鱒を釣ったり、グレングラント蒸溜所の敷地内に忍び込んではそこら中で遊び回っていたようだ。

「よく蒸溜所の人に追いかけられて、逃げ出していましたよ」とデニスはいたずらっぽく回想する。友達と周辺を探検して、当時の敷地内にあった温室にもこっそり侵入した。そこで農家の人の目を盗みながら、見たこともないような果物を物色していたのだという。

高校に進学せず、蒸溜所の見習いを始めた60年前。ベテランたちの知識と経験を吸収できたのは幸運だったとデニス・マルコムは振り返る。

かつてグレングラントを所有していたのは、大旦那と呼ばれたジェームズ・グラントの一族だった。ジェームズ・グラントは1931年に逝去していたが、敷地内に残されていた蒸溜所長の大邸宅をデニスは今でもよく憶えている。

それは前オーナーの趣味を反映した風変わりなビクトリア朝様式で、いかにも威圧的な空気が周囲に漂っていた。そこら中に異国情緒あふれるエキゾチックな土産物が陳列され、すべての壁には隙間なく狩りの獲物の剥製が飾られていたのだという。

そんなこともあって、この大邸宅はいささか不気味な場所としてデニスの記憶に刻まれている。だがそんな印象を打ち消すほどあたたかい思い出もあった。それは大旦那の執事を務め、独立した執事室でその生涯を過ごしたビアワ・マカラガの存在だ。

もう大旦那の邸宅は取り壊されてしまったが、玄関にあった重厚なドアが現在のデニス宅の玄関に移設されている。デニスの家は、蒸溜所の蒸溜棟から徒歩で坂をわずか数十歩上った場所にある。

デニスの祖父は、1919年にグレングラント蒸溜所で社会人生活をスタートした人物だ。ロセスで最古のモルトウイスキー蒸溜所は、マルコム家と3世代にわたって1世紀を超える付き合いがあるということである。

当時のグレングラントのオーナー兼マスターブレンダーは、ダグラス・マッケサックだった。ダグラスは、従業員の子供が就業可能な年齢に達したら、誰でも蒸溜所で働き始められるように取り計らっていたのだという。もちろんデニスもそんな家族を優先する入社精度の対象になった。

「私が働き始めた時には、4人の父親と4人の息子がグレングラントで働いていました。息子だけじゃなく、娘たちも事務所で働いていましたよ。つまり家族なら誰でも希望すれば雇ってもらえたんです」

ロセスの中学校で義務教育を終えた15歳のデニスは、早くも人生の岐路に立つことになった。エルギン高校で学業を続けるか、父の後を追って毎日グレングラントで働く生活に入るか。結局、エルギン高校への入学は許可されたが、デニスはウイスキーと共に生きる道を選んだのである。
(つづく)