シングルモルトのパイオニア「グレンフィディック」を味わう【前半/全2回】

March 22, 2019

世界最高の売上を誇るシングルモルトウイスキーは、伝統を守りながらもチャレンジを忘れたことがない。ウイスキーの未来を切り開いてきたグレンフィディックの足跡を辿る2回シリーズ。

文:WMJ

 

世界中で大人気のシングルモルトウイスキー。数ある銘柄のなかで、堂々の売上ナンバーワンはグレンフィディックだ。世界最多の受賞歴を誇り、2017年の売上は122万ケース。これほどのブランドが、今もまだ家族経営で伝統製法を守っているのは驚きである。

グレンフィディック蒸溜所を創設したのは、1839年生まれのウィリアム・グラントだ。仕立て屋の息子として育ち、家計を助けるために羊飼いとして働いた経験を持つ。この頃の経験からスペイサイドの風土を熟知し、後年の蒸溜所建設に役立ったといわれている。

禁酒法と大恐慌で打撃を受けたとき、あえて増産に打って出たグレンフィディック。将来を見通した経営判断が、世界一の売上を誇るブランドへと成長する一因になった。

27歳からモートラッハ蒸溜所に勤務し、自分の蒸溜所を持ちたいと思うようになったウィリアム・グラント。1886年に独立を決意したときは、もう47歳になっていた。通常なら引退を考えるような年齢で、最高の1杯をつくるために大きな一歩を踏み出したのである。

ハイランドのスペイサイド地域にあるダフタウンで、ウィリアム・グラントは9人の子どもたちと1人の石工職人の力を借りながら蒸溜所建設に着手した。鹿(フィディック)の谷(グレン)を意味するゲール語から、蒸溜所を「グレンフィディック」と命名。7人の息子と2人の娘の力を結集した家族総出の船出だった。

当時はブレンデッド全盛の時代である。創業者の娘婿にあたる2代目のチャールズ・ゴードンは、1898年にブレンデッドウイスキー「グランツ」を発売。これが人気を博して1909年には海外進出も果たした。試練が訪れたのは、創業者の孫にあたるグラント・ゴードンの時代だ。米国では1920年から禁酒法が施行され、大恐慌も追い打ちをかけてウイスキー市場は大打撃を受けた。

メーカーが軒並み生産を制限するなか、グレンフィディックは「厳しいときがチャンス」とばかりに生産量を拡大する。この逆張り戦略は、未来を見通す見識から生まれたものだ。「禁酒法はいつか終わる。その時には巨大な米国市場に打って出よう」と考え、事実その通りになったのである。

 

周囲の反対を押し切ってシングルモルトを普及

 

さらに大きな挑戦を敢行したのは、創業者の曾孫にあたる4代目のサンディ・ゴードンだ。彼こそが、シングルモルトウイスキーという新カテゴリーを初めて世界に売り込んだ人物である。ブレンデッド一色の1963年に、シングルモルトウイスキーを携えて単身ニューヨークに渡った。一見無謀な試みに、冷ややかな目を向ける周囲の人々。マディソンアベニューの広告代理店も「この国でシングルモルトは流行らない」と決めつけた。

だがサンディ・ゴードンには、成功への秘策があった。ニューヨークとシカゴを結ぶ鉄道内でグレンフィディックを提供し、ハリウッド関係者と交流することで映画に露出。「もうブレンデッドでは満足できなくなる」という大胆な広告を打ち、とうとうシングルモルトの普及に成功したのである。グレンフィディックが「初めて世界に挑戦したシングルモルト」と呼ばれる所以だ。

6代目モルトマスターのブライアン・キンズマン氏。伝統を守りながら、常に新しいチャレンジを続けている。

1969年に、世界で初めてのビジターセンターを開設した蒸溜所もグレンフィディックだった。シングルモルトウイスキーの成功によって、多くのファンが生産地に足を運びたいと考え始めていた。現在スコットランドのウイスキー蒸溜所は年間100万人以上の観光客を迎え入れているが、その先鞭をつけたのはグレンフィディックである。シングルモルトというカテゴリーを創造して英国に繁栄をもたらした功績により、1974年にはウイスキー業界で初めて英国政府公認の「クイーンズアワード」を受賞している。

世界的なビッグブランドになった今も、グレンフィディック蒸溜所では創業家の親族が汗を流しながら働いている。ウイスキーづくりは長い時間を必要とするビジネス。目先の利害にとらわれず、長期的な視点で判断できるのは家族経営の賜物だ。
(つづく)
 

シングルモルトウイスキーのパイオニア「グレンフィディック」の歴史、こだわり、商品ラインナップなどを網羅した公式ホームページはこちらから。

 

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