軽井沢蒸溜所の終焉【後半/全2回】

January 15, 2016


部外者にはほとんど知られることのなかった、ウイスキーづくりの詳細を内堀修省さんが明かす。この素晴らしい伝統は、本当に終わってしまうのだろうか。歴史を受け継ぐ者たちへ、モルトマスターからのメッセージ。

文:ステファン・ヴァン・エイケン
【←前半】
 

木製ラックのサイズに合わせ、自前で組み替えた小ぶりな樽で貯蔵していた時代もある。蒸溜所設備の細部に、あの特徴的な味わいの秘密が隠されていた。

軽井沢蒸溜所で生産されるスピリッツは、そのほとんどが早期からシェリー樽で貯蔵されていた。黎明期には早川物産経由でスペインのシェリー樽を購入したこともあったが、60年代からオーシャンウイスキーが独自の樽をつくるようになり、蒸溜所内にも樽工房が設けられた。栃木や茨城で採用した樽職人の他に、塩尻にある大黒葡萄酒のワイン部門から5~6人の樽職人を軽井沢に招聘。地元でも和樽がつくれる職人を何人か採用したという。

自前の樽工房でつくられた新樽は、メルシャンのシェリー酒づくりに使用された。ここで製作した樽にシェリーを6ヶ月から1年の間貯蔵し、シェリーが完成して樽が空になったらウイスキーを容れるのである。リフィルで使用することもあったが、「出来のいいスピリッツはみんなファーストフィルに容れたよ」と内堀さんが証言する。

軽井沢蒸溜所の貯蔵庫は木製のラック式である。古い貯蔵庫はラックの大きさに制約があったことから、独自のシェリー樽をつくる必要があった。ヴァットよりも少し小ぶりな特製樽(450L)なら、ラックに2本ずつ並べて貯蔵できる。第1貯蔵庫は400樽しか収容できず、4段組ラックの最上段はやや小さな樽(バレルやホグスヘッド)の定位置となっていた。90年代後半にできた第8貯蔵庫は、完全に自動化されたシステムのおかげで、樽を小さく組み替える必要もなくなった。ヴァットもそのまま問題なく貯蔵でき、機械式でラックが自在に動かせるので、2,000樽以上が収容できたのである。

ゆくゆくは他の貯蔵庫も同様のシステムに改築される計画だったが、歴史がそれを許さなかった。蒸溜所が閉鎖されたとき、第8貯蔵庫はただの書庫として使用されていた。贅沢な自動ラックシステムも、間もなく取り壊される運命である。「もったいないよねえ」と内堀さんは溜息をつく。

貯蔵において興味深いのは、軽井沢蒸溜所がおこなっていたヴァッティングの慣行だ。ウイスキーの熟成が8〜10年に達すると、最終製品の品質を一定に保つために樽から原酒を取り出してヴァッティング(ブレンド)し、再び同じ樽に戻されてさらなる熟成を待つ。ひとつの樽で最後まで熟成されるウイスキーもあるが、軽井沢蒸溜所で貯蔵されるウイスキーはこのヴァッティングを経て商品化されていたのだと内堀さんは語る。

近年、80年代初頭(1981~84年)のヴィンテージが、軽井沢蒸溜所の黄金期として認識されるようになっている。味わいが特に向上した理由は何だったのだろう。内堀さんには、思い当たるフシがあった。

「その頃、ちょうどラウタータンクを導入したのと同じタイミングで、それまでやっていた濾過方法をやめたんだ。以前は濁ったスピリッツをきれいにしようと強制的に濾過していたけれど、新しい方法では時間をかけて麦汁を引き抜くだけにした。あの古い濾過方法で、もともとの風味が失われていた可能性はあるんじゃないかな」

 

蒸溜所の衰退と、史上最高額のウイスキー

内堀さんのサインが入ったファン垂涎の1960年ヴィンテージと、最晩年につくられたニューメイク。日本ウイスキー史における貴重な1ページがここにある。

内堀さんの個人的な黄金期を問えば、それは蒸溜所の最晩年にあたる90年代なのだという。

「やっぱりそれまではただのサラリーマンだったけど、モルトマスターになってからは自由にやりたいことができたからね」

当時のプロジェクトのひとつが「ルージュカスク」。1995年、内堀さんは勝沼にあるメルシャンのワイナリーから20本の赤ワイン樽を持ってきて、軽井沢蒸溜所のニューメイクを貯蔵した。このウイスキーは熟成年が12年に達した2007年から徐々に商品化され、蒸溜所のショップに行けば数千円で購入することができたものだ。だが今では、この希少な「軽井沢ルージュカスク」も、ほとんど法外な値段で取引されるようになっている。

ウイスキーの熟成効果を知るには、10年以上の時間をかける必要がある。内堀さんには実験を続ける意志があったものの、軽井沢蒸溜所のウイスキーづくりは90年代終盤に向かって少しずつ衰退していく。そして最後には、ウイスキーのラベルに記載されているように「3人のウイスキー工場」となり、ウイスキーの生産も1年に2~3ヶ月おこなわれるのみとなったのである。50人が休みなくスピリッツを生産していた時代に比べると、まさに隔世の感があったことだろう。

軽井沢蒸溜所では、公式なスピリッツ生産が2000年12月31日をもって終了した。それ以降、内堀さんは2人の同僚と共に蒸溜所の管理人となり、蒸溜所の設備を保全しながらたくさんのシングルカスクウイスキーを手で瓶詰めした。近頃そのボトルのひとつが地球上でもっとも高価なウイスキーと認定され、伝説的な存在となっているのはご存じの通りである。

2006年、休眠中のスチルを再稼働させた時期があった。蒸溜所建設を夢見る1人の男が、ウイスキーづくりを実地で学ぶため、ここで内堀さんの手ほどきを受けながら2ヶ月間の研修をおこなったのである。この人こそが、あの肥土伊知郎さんだ。やがて秩父に自身の蒸溜所を創設した肥土さんは、内堀さんを招聘して技術面でのサポートを要請する。その仕事が一段落した頃、内堀さんは自宅のすぐそばで現在の職場を得ることになった。ヤッホーブルーイングでのビールづくりである。自分ではウイスキーを飲まず、毎夕のビールを楽しみにしているという内堀さんにとっては理想的な仕事だといえるかもしれない。

受け継がれる伝統。2015年11月23日、取り外されたスチルが建設中の静岡蒸溜所に移設された。


軽井沢蒸溜所は、あと数週間のうちに取り壊されて消滅する。跡地には、御代田町役場の新庁舎が建設される予定だ。蒸溜所設備の一部は、ガイアフローが新設する静岡蒸溜所で再利用される。取り壊しは残念だが、遺伝子の一部が場所を変えて生き延びると見ることもできる。

ひとつの歴史は終わったが、軽井沢でウイスキーをつくる夢が完全に潰えたわけではない。この地でウイスキーをつくり続けようと画策している人を、少なくとも1人知っている。だがその計画が実現するとしても、まったく同じ場所で、同じ設備でおこなわれることはありえない。

いちばん大事なのは、ウイスキーづくりにぴったりな旧小沼村の小沼水道の水と、この土地の気候だと内堀さんは言う。軽井沢蒸溜所が生み出してきた素晴らしいウイスキーの風味を、いつか再び味わうことは可能なのか。そんな質問に、モルトマスターは微笑みながら答えた。

「私がいるうちなら、まだできるかもしれない。でも、完全に同じものにはならないだろうね」

 

 

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