軽井沢蒸溜所の終焉【前半/全2回】

January 8, 2016

2015年8月、香港のオークションで1本約1,400万円もの値がついたジャパニーズウイスキー。誰もが憧れる風味をつくり上げた蒸溜所は、いま静かに最後のときを迎えている。50年にわたって軽井沢蒸溜所を見守ってきた最後のモルトマスター、内堀修省さんの独占インタビュー。


文:ステファン・ヴァン・エイケン

静かに最後の時を待つポットスチルたち。使用可能な1基のみ、ガイアフローの静岡蒸溜所に移設されて稼働することになる。

日本のウイスキーの歴史が、またひとつ幕を閉じる。あと数週間もすれば、軽井沢蒸溜所は跡形もなく消え去ることだろう。2015年11月19日から23日にかけて、再利用できる設備はすべて運び出された。2016年1月には解体業者が建物を打ち壊し、それですっかりおしまいになる。

設備が搬出される1週間前、私は軽井沢蒸溜所の中で最後の見学を許された。案内してくれたのは、この蒸溜所を誰よりも知り尽くす男。黄金期の60~70年代から、衰退と閉鎖までを見届け、ウイスキーづくりに人生を捧げた最後のモルトマスターこと内堀修省さんである。

内堀さんがウイスキー業界で働き始めたのは、偶然の成り行きであったという。実のところ、アルコール自体が苦手だった。

「私は酒が全然飲めなかったからね。タバコは小学校4年生の頃から吸ってたけど(笑)。何しろアルコールのにおいが体に合わなくて。親父はよく飲んだけれど、私はおふくろの系統なんだ」

高校を出たらガソリンスタンドで働こうと考え、そのために危険物取扱者の資格も取得した。だが高校の先輩の薦めもあって、軽井沢蒸溜所で働いてみようと考えた。軽井沢蒸溜所を運営していたのは大黒葡萄酒で、給料はいいが門戸は狭い。その年の求人倍率は7〜8倍だったが、内堀さんは首尾よく選考を突破した。

入社は1960年4月。約50人の社員と共に、3交代制の蒸溜所勤務が始まった。その忙しさは相当のものだったという。7人のボイラーマンが絶えず燃料を供給し(当時は石炭だった)、8人がマッシュと発酵の「仕込み」を担当し、8人が蒸溜工程を交代で見守り続けた。さらに6人が樽工房、8人が貯蔵庫で働き、試験係と事務係が10人、管理職が数人いた。

長年のキャリアの中で、内堀さんは樽工房を除くすべての仕事を経験してきた。ボイラー技士の資格があったので、マッシング、蒸溜、樽の選定、ボトリング、さらには酒税管理に至るまで、必要があれば何でも担当したのだという。

蒸溜所に残された、たくさんの設備。かつてここにあったが、今では失われてしまったもの。働く人々の試練と、それを乗り越えてきたエピソード。笑い話や、ちょっと寂しい追想も尽きることがない。

 

蒸溜所に残された思い出の設備

ウイスキーブームが、もう少しだけ早く到来していたら……。伝説的な存在となった蒸溜所も、1月中の解体工事が決まっている。

解体前の軽井沢蒸溜所に残っていた、もっとも高価な設備のひとつが麦芽粉砕機(モルトミル)だ。これは英国から1989年に導入したPorteus社の4ロールミルである。麦芽の粉砕はマッシングの品質に大きな影響を与えるため、非常に重要な設備投資だった。このミルの導入により、軽井沢蒸溜所のモルトウイスキーの品質はさらに向上したのである。内堀さんの見積もりによると、現在も2千万円相当の価値がある。だが2015年初頭のオークションで、静岡蒸溜所を建設するガイアフローが、そのわずか4分の1の値段で同機を落札した。かなりのお買い得であったことは間違いないだろう。

軽井沢蒸溜所には、こだわりの設備が他にもある。そのひとつがマッシュタン(ロイタータンク)だ。容量は1,200Lあるが、軽井沢蒸溜所では1,000Lまでしか容れたことがないという。

5つの木製発酵槽は、約10年も放置されていたため、残念ながら再利用はできない。スコットランドでオーダーメイドされた米松(オレゴン・パイン)素材の発酵槽で、1992年に横浜港から蒸溜所に運び込まれた。それ以前はホウロウ製、さらに以前はスチール製、最初期はコンクリート製の容器を発酵槽として使用していたという。発酵時間はおよそ3〜5日間で、ウイスキー発酵用酵母とビール用酵母を併用した。その内訳には、メルシャン独自の酵母菌株も含まれている。

4基あるポットスチルのうち、いちばん最後に設置されたスチル(1975年設置の再溜釜)だけが現役でスピリッツを蒸溜できる。屋外で展示されている第1号スチルは、スコットランドに注文して取り寄せたもの。そのスチルを参考にして、三宅製作所が同様のスチルを2基製造した。その後、再び新たな初溜釜と再溜釜がスコットランドに発注され、それらが納入されると初代の再溜釜が屋外の記念碑になったのである。

蒸溜所の全盛期には、4基のスチルが休まずフル稼働していた。それが90年代後半には4基のうち3基のみを使用し、稼働する期間も年間わずか数ヶ月となった。内堀さんが働き始めた頃には、すでにスチーム加熱のみだったという。

どのスチルにも、シェル&チューブ式(多管式)のコンデンサーが備え付けられている。コンデンサーに流し込む冷却水は質より量が肝心なので、仕込み水のような配慮は必要ない。この冷却水に関する面白い裏話を、内堀さんが披露してくれた。1977年、蒸溜所から200m離れた場所に御代田北小学校の新校舎が落成した当初のことである。

「新しくできた小学校のプールで、水を張り替えるたびに水温が3度ぐらい上がっていることに気づいたんだ。おかしいじゃないかと調べたら、蒸溜所を通過した小沼水道の配管が、学校用に引かれた佐久水道の配管とプールの上流でドッキングしていることがわかった。配管ミスだね。だからプールに水を張るのは夜にしてくれと役場に交渉に行ったんだよ(笑)」

 

<後半につづく>

 

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