ストラスアイラ蒸溜所から、道を挟んだグレンキース蒸溜所へ。近所にある2つの蒸溜所は、あらゆる面で対照的である。

文・写真:ステファン・ヴァン・エイケン

 

北スペイサイド地方のウイスキー蒸溜所を1週間で何軒訪ねられるのか。シリーズ第6回の目的地までは、そんなに離れていない。実のところ、前回のストラスアイラ蒸溜所から目で見えるほど近いのだ。だが両者は対照的な存在である。ストラスアイラがスコットランドで継続的に営業を続けている最古の蒸溜所であるのに対し、グレンキースは実用性を追求したモダンな蒸溜所だ。

グレンキース蒸溜所の誕生は、米国で1950年代に高品質なブレンデッドスコッチウイスキーの需要が増大したことと関係がある。シーグラムを率いるサム・ブロンフマンが1949年にシーバスブラザーズを買収し、その翌年には首尾よくシーバスリーガルのキーモルトを生産するストラスアイラ蒸溜所も手中に収めた。前オーナーが脱獄で投獄され、競売に出た蒸溜所を適価で購入でしたのである。サム・ブロンフマンは1950年に米国市場でシーバスリーガル(12年)を再発売し、禁酒法前の人気を短期間で取り戻した。その売り上げは1950年代を通して増大し続けることになる。

バッチあたり8トンで、1週間に25~26バッチをこなす。ブリッグズ社製のマッシュタンを使用し、冷却用の水はストラスアイラ蒸溜所と共用している。

またサム・ブロンフマンは、当時すでに世界的な人気を誇っていたカティーサークのように軽やかなブレンデッドウイスキーを売り出したいと考えていた。オーナーであるベリー・ブラザーズ&ラッドからカティーサークを買収しようと試みるも失敗に終わり、同様のスタイルで自前のブレンデッドウイスキーをつくることにした。

増大するブレンデッドウイスキーの需要に応えるため、シーグラムはストラスアイラ蒸溜所から通りをはさんだ敷地に新しい蒸溜所の建設を決断。具体的には、アイラ川沿いにあった製粉所の敷地だ。1957年に建築工事が始まり、1960年にグレンキース蒸溜所の開業が公式発表。だが記録を辿ると、実際にはその前年から生産が始まっていたようである。

1957年当時に蒸溜所を新設する決断は、多くの驚きをもって迎えられた。不祥事に端を発する1898年のウイスキー不況で、68軒もの蒸溜所が閉鎖に追い込まれていた時代である。不況60年で新設された蒸溜所はわずか5軒。そのうち現在も生産を続けているのはたった1軒(1949年創設のタリバーディン)である。グレンキースは、 ビクトリア朝後期のウイスキーブーム以降、スペイサイドで新設された初めての蒸溜所であった。

 

ブレンデッドウイスキー「パスポート」のキーモルト

 

グレンキース蒸溜所に求められたのは、軽くて飲みやすいブレンデッドウイスキーに使用するモルトウイスキー。そこで3回蒸溜を採用して3基のポットスチルを設置した。1976年まで、大麦はすべて蒸溜所内のサラディンボックスで製麦されていた。グレンキースの製麦施設からは、ストラスアイラ蒸溜所にも大麦モルトが供給された。道の向かい側にある蒸溜所までパイプを渡し、空圧を加えて送り出すというシンプルな仕組みだった。

1960年代、グレンキース蒸溜所でつくられるモルトウイスキーの多くはブレンデッドスコッチウイスキーに使用されていた。具体的にはシーバスリーガル、100パイパーズ、パスポートである。パスポートは1965年にマスターブレンダーのジミー・ラングが創始したブランドで、グレンキースはパスポートのキーモルトを生産するという位置付けだった。

1970年になると2基のスチルが追加され、全部で5基という生産体制になる。この新しい2基はスコットランドで初めてのガス直火式スチルで、古い3基も同時期に直火式に改修された。その3年後には、スチームコイルも導入されている。そして1970年代のある時点で、グレンキースは3回蒸溜を廃止して一般的な2回蒸溜に切り替えた。

15槽ある発酵槽のうち9槽は木製だ。実験的な蒸溜所として知られるグレンキースでは、酵母株を自前で開発したこともある。

グレンキースは映画『夢のチョコレート工場』のような蒸溜所だといえるだろう。毎日のように新しい実験を繰り返し、生産工程のあらゆるパラメーターで試行錯誤がおこなわれた。小麦を使用したマッシュを使ったり、ピート濃度の高い水を初溜釜に加えてみたり、自前でピーテッドモルトを作ってみたり、独自の酵母株を開発してみたり。酵母株はまずワートから採取され、後にポットエールからも採取され、シーバスグループの他の蒸溜所(ストラスアイラやグレングラント)でも使用された。このような多くの実験も、今では遠い歳月の彼方である。

1980年、グレンキース蒸溜所は大改修をおこない、ウイスキー業界に先駆けてコンピューター化を敢行した。ほぼ全生産行程で、コンピューター制御のシステムを導入したのである。グレンキースは糖化工程の自動化を最初に試みた蒸溜所だ。1983年には6基目のポットスチルが設置されている。

だがその後、歴史は暗転する。グループ内で余剰施設と判断されたグレンキース蒸溜所が、1999年に生産を休止してしまうのだ。皮肉なことに、この年を境にしてスコッチウイスキーの売り上げは世界中で好転した。

10年後、シーバスブラザーズ傘下のブレンデッドウイスキーのいくつかが需要に追いつかない供給不足に陥る。シーバスブラザーズは、2001年からペルノ・リカールに親会社が変わっていた。原酒不足を解消するため、グレンキース蒸溜所の再稼働が決まったのである。

蒸溜所の再稼働といっても、蜘蛛の巣を取り払ってスイッチを入れたら再び動き出すほど単純な話ではない。13年に及ぶ休業期間中、蒸溜所の設備は部分的に解体されて他の蒸溜所で使用されてきた。そのためここを住処としていた鳩たちを追い出し、古い建屋の中にまったく新しい工場を造り直さなければならなくなったのである。

建設作業は2012年2月に始まり、2013年6月14日に正式に再開業。だがある情報筋によると、実際には4月からスピリッツの生産が再開されていたという説もある。生産量はかつてのほぼ2倍にあたる年間600万L(純アルコール換算)にまで増えたが、主にブレンデッドウイスキー用であることは変わっていない。

コンピューター制御のモダンな生産スタイル

 

グレンキース蒸溜所は一般公開されていないが、幸運なことにペルノ・リカールの友人たちが内部を視察させてくれた。公開されない理由はだいたい想像できる。完全に自動化された効率重視の蒸溜所なので、操業中でも(といよりも操業中だからこそ)かなり殺風景に見えるのだ。コンピューター画面の前に経験豊富なオペレーターが1人座っていれば、最初から最後まで生産工程を管理できる。

現在、グレンキース蒸溜所は1日24時間、週休2日で稼働している。オペレーターは3交代制で、1週間に25〜26回の糖化がおこなわれる。使用される大麦モルトは、1バッチあたり8トン。糖化に使用されるのは真新しいステンレス製のフルラウター式マッシュタン(ブリッグズ社製)だ。冷却用の水は、ストラスアイラ蒸溜所と連携しながら共用している。

初溜釜(奥)はタマネギ型で、再溜釜(手前)はバルジ型。ラインアームが長いのもグレンキースの特徴だ。創業時は3回蒸溜だったが、1970年代に2回蒸溜へ変更している。

1回の糖化で得られる約36,000Lの麦汁は、15槽ある発酵槽のひとつに送られる。発酵槽は9槽が木製で、2つの部屋に分けて置かれている(1〜6号、7〜9号)。残りの6槽はステンレス製だ。マッシュタンと新しいステンレス製の発酵槽を設置するため、サラディンボックスの製麦装置は2012〜2013年の改修で取り外されてしまった。発酵は56時間で、もろみは3等分されて3基の初溜釜に送られる(各12,000L)。

3基ある初溜釜はタマネギ型だ。一方、対になる3基の再溜釜にはボイルボールが付いている。すべてのスチルには長いラインアームが取り付けられており、そのうち1対の初溜釜と再溜釜は蒸溜棟のレイアウトに合わせて極端に長い。すべてのニューメイクスピリッツはタンクローリー車で運び出され、ペルノ・リカールが所有する巨大な貯蔵庫で樽詰めされている。

またグレンキース蒸溜所には、スペイサイドでペルノ・リカールが所有するすべての蒸溜所を対象にした品質管理試験所が併設されている。実は休業していた間も事務所機能は残され、試験所や研究開発施設として使用されていたのだ。

現在、休業前のグレンキースのウイスキーは独立系ボトラーの商品として市場に出回っている。当時のウイスキーと現在のウイスキーの違いは、これから徐々に明らかになってくるだろう。

今シリーズの締めくくりは、ここから15km東にある蒸溜所だ。厳密に言えばスペイサイド地方の外側になるが、ちょうど操業125周年を祝ったばかりの蒸溜所なので見過ごす手はない。
(つづく)