禁酒法がバーボン業界に与えた影響【後半/全2回】

September 12, 2016


禁酒法が与えた深刻なダメージから、完全に立ち直ったかのように見えるアメリカのウイスキー産業。だがケンタッキー州にも約120の禁酒郡が残されている。日本ではあまり知られていないアメリカ酒類業界の内幕を解説。

文:デイヴ・ワデル

 
キャスリン・ルディー・ハリガン氏が1983年に記した分析によると、禁酒法以来も続いてきたバーボン業界は、ほとんど最終局面のような状況だった。1994年までに、バーボンは息も絶え絶えだったのである。かつて栄華を誇ったアメリカのウイスキーづくりは10箇所の主要蒸溜所とわずかなマイクロディスティラリーを残すのみとなり、評判に登ることもあまりなくなった。

この惨状を禁酒法のせいにすることは、禁酒法以前の状況を美化して、禁酒法後に起こったことを正当化することにつながる。だが歴史的に見て、プロテスタントの国としてのアメリカは、いつもアルコールと微妙な関係にあった。酒を飲むことは個人の責任に委ねられるものの、多くの宗派ではたしなむ程度に少量だけを飲むことが美徳とされていた。

象徴的なことに、南北戦争以前のアメリカでは、公民権のない人々や奴隷にアルコール飲料を販売するのは違法だった。南北戦争が終わり、禁酒運動の盛り上がりや勤勉な人々の働きかけによって、1915年までに20州で禁酒条例が成立した。1915年といえば禁酒法施行の5年前である。19世紀の後半にはすでに蒸溜所の数が減少していた。1897年のボトルド・イン・ボンド法、1907年の食品医薬品清潔法、1909年のタフト判決など、低品質な偽物のウイスキーを規制する法律で悪徳ブレンダーや共謀する問屋の不当利益を防止していたにもかかわらず、依然として市場はたくさんの密造業者やバーや居酒屋に卸す業者が跋扈するカオス状態が続いていたのだとサゼラック社のマーク・ブラウン氏は語っている。

この点においていえば、禁酒法廃止の結果から生まれた状況の多くは、必要なものでもあったといえる。特にバーボン業界による自己規制の決断や、ボトリング(樽詰めではないところが重要)によるバーボンのみを自由市場における唯一正当な製品と見なした新生の蒸溜酒製造協会は、状況を正しい方向に変えていった。20世紀半ばから後半にかけてバーボンが迷走し、その後でアメリカのストレートウイスキーが現代版のルネッサンスを謳歌している現在の状況を見るに、1970年代にバーボン業界がおこなった原点回帰運動との類似点を分析してみる価値はあるだろう。この運動は、高品質、複雑、特別感、プレミアムであることを強調して、その後の30年間を変える力があったかもしれないアプローチだった。

 

保守的な州に今でも残る禁酒政策

 

確かに、あの禁酒法の歴史を受け入れるにはまだまだ時間がかかるし、1900年頃につくられていたバーボンの品質が低品質だったと断言できるわけでもない。また60~70年代のバーボン業界が愚かな自殺行為をおこなっていたという歴史の裁定にも時間がかかる。私たちはまだ夢を見ているのだ。ハリガン氏によると、バーボンが衰退していくシナリオの中で大規模メーカーが下した決断は、禁酒法が生み出した状況、産業構造、システムと密接に結びついていた。

確かなことは、貯蔵庫で眠る原酒や、ウイスキーづくりに関わる従業員の力量を正当に評価している者が当時はいなかったということだ。そのため私たちはメイカーズマークの独特なポリシーや、国外で予想を上回る成功を収めたフォアローゼズやブランドンシングルバレルなどのブランド、豊満な味わいが口いっぱいに風味が広がるつくり手本位のバーボンの登場を待たなければならなかった。意外性を持った幅広いアプローチへの回帰、クラフトディスティラリーの急激な躍進、高めのアルコール度数、同じタイプの原酒を異なる度数で表現する試み、シングルバレル、スモールバッチなどでボトルごとの違いを重んじる近年の市場傾向から振り返ると、当時の変化はどれもが理にかなった動きだった。

またバーボンの特徴を台無しにした1970年の措置を仮にやめさせることができたとしても、禁酒法がもたらした負の遺産による窒息から逃れる術はほとんどなかっただろう。この負の遺産には、役所による起業への締め付け、流通や販売のネットワークの弱体化、生産者と問屋と販売者を3つに分断した産業構造、州内だけに限定された流通の規制などが含まれる。

そのため私たちは、ニューヨーク、ワシントン、テキサス、オレゴン、コロラドの各州が因習を改革するのを待たなければならなかった。今やこれらの州は、蒸溜所の新規建設への規制が緩和されてコストも低減され、ばらつきがあった問屋の流通網が整理され、その結果として国内の蒸溜所数が現在の約650にまで達する道筋を作ったのである。

つまり結論をいうと、バーボンの現状は条件付きで祝うべきものだろう。長い忍耐の年月が終わってから、少なくとも6年は経つ。バーボンはカムバックを果たし、他のアメリカンストレートウイスキーも復活した。2010年には、禁酒法以来初めてカナディアンウイスキーを売上で上回った。新しい蒸溜所、レシピ、独立系ボトラー、ブランドが急速に生まれているため、常にすべてを把握するのは不可能なほどだ。

禁酒法の前後を生きたディスティラーの一人が、スティッツエルウェラー蒸溜所の創業者ジュリアン・“パピー”・ヴァン・ウィンクル氏。浮き沈みが激しかったバーボン史のなかでも、高品質なウイスキーづくりは何とか受け継がれた。

禁酒法とその遺産は、もう完全に過去のものとなったようにも見える。あの巨大なスコッチウイスキー産業界でさえ、これまでのバーボンに対する疑いに満ちた評価を改めるかのようにヤキモキした関心を寄せている。「バレルハウンド」や「スクラッチドカスク」などの、いわばバーボン化されたスコッチに代表される不思議なトレンドはその証拠だ。

だが、まだ手放しで喜ぶわけにもいかない。2016年のアメリカにあっても、カンザス、テネシー、ミシシッピーの各州は依然として基本的な禁酒政策を崩していないといっていい。全米の3分の1の州は酒類の仲買と販売を独占し続けている。33州が郡の規制によってアルコール全般もしくはスピリッツ類の販売、消費、所持などを禁じた「禁酒郡」(ドライ・カウンティ)の存在を容認している。そんな州のひとつが他でもないケンタッキー州であり、同州内の約3分の1にあたる120郡が禁酒郡なのである。新しい蒸溜所が芽吹いているケンタッキーにおいて、これは皮肉と呼ぶ以外にないだろう。

 

 

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