シェリー樽の長い旅【第1回】
文・写真:クリストファー・コーツ
シェリー樽とは何か。シンプルな問いだからこそ、答えも無数にある。だがその答えにも、ひとつとして単純でわかりやすいものはないだろう。
世界中で広く畏敬の対象となり、謎めいた流行の味わいとして認知され、魅力的な琥珀色を見せつけ、英国風クリスマスケーキのフレーバーをウイスキーに授けるという特別な樽。ウイスキーをシェリー樽で熟成することには、受け取り方によってさまざまに異なった意味合いがある。
オーク材の種類、樽の形状、独特なソレラシステム、シーズニングの作法。シェリー樽の世界を理解しようとしたら、それこそ膨大な要素を考慮に入れなければならない。数世紀に及ぶ長い歴史もあるし、その歴史を語る上で避けては通れない近年の規制も理解したほうがいい。
ここ何十年もの間、スコッチウイスキー業界の一部は、シェリー樽のウイスキーをもてはやしながら、マーケティング上の価値を高めることに苦心してきた。これがシェリー樽の漠然とした高級感のみを普及させ、その実態や一般的な知識は置き去りにされてきた。
そもそもシェリーとは?
シェリー樽を神話から解き放つためには、ボデガの隅々までをくまなく探索して段階的に理解する必要がある。だがシェリー樽について理解する前に、まずはシェリーとは何かをおさらいしたい。簡単にシェリーの歴史を紐解いてみよう。
ギリシャの地理学者ストラボン(紀元前63〜23年)が著した『地理』によると、スペインのアンダルシア地方にある現在のヘレス・デ・ラ・フロンテーラ周辺地域では、紀元前1100年頃からワインが造られていたという。この説を裏付ける具体的な証拠が、最近になって発見された。ヘレスから4kmほど離れたドーニャブランカ城のフェニキア考古学遺跡で、考古学者たちが紀元前4世紀のものと見られるワイン醸造用の搾汁場跡を発見したのだ。
この地域のワインは、古くから「遠くまで輸送しても品質が落ちない」という評判があったという。ヘレスのワイン造りはその後幾世紀にもわたって大きく変化することになるのだが、この品質こそがローマ帝国各地域で広く重宝される原因のひとつだったのである。
8世紀初頭、ムーア人がスペインを征服する頃までに、アル=アンダルス(現アンダルシアの旧名)地方は優れたワインの生産地として有名になっていた。アルコールを飲むことはイスラムの教義で禁じられているものの、ブドウ栽培は500年に及ぶムーア人の支配期を通じて盛んに続けられた。ワインの一部は蒸溜されてグレープスピリッツとなり、医療用の目的に使用されていたものと考えられている。アメリカの禁酒法時代にもウイスキーが医療用として販売されていたが、人間は時代や場所が変わっても似たような企みをするものである。
実際のところ、イスラムの支配者は誰として地元のワイン生産を廃止する必要があるとは考えなかったようだ。そしてアルコールの販売は禁止されていたものの、依然として課税の対象となっていたのはどういうことだろう。後ウマイヤ朝の第2代カリフにあたるハカム2世は、宗教上の理由から葡萄の木の廃棄を命じた。しかし対象となったのは、地域の3分の1の量に過ぎない。こんなところにも、ワイン造りに損害を与えすぎないようにしようという配慮がうかがえるのだ。残りのブドウ畑が守られた理由もちょっと疑わしい。兵士たちに配給する非常食のレーズンが必要だからということになっているが、歴史家たちは本当の理由が他にあるのではないかと考えている。その理由は、みなさんがお察しの通りだ。
12世紀までにシェリシュ(ムーア王朝時代のヘレスの呼称)で産出されるワインは定期的にイングランドへ輸出され、高級品として取り扱われるようになった。そして1264年、ヘレスはキリスト教徒によるレコンキスタによってカスティージャ王国最南部の要衝となり、現在の「ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ」という名になる。
キリスト教勢力による支配が再開すると、アンダルシアから輸出されるワインは英国で人気拡大。貿易額が増加するに従って、ヘレスの人々はワイン業界を守るために一定の公的規制が必要であると考えた。これが1483年8月12日公布の「ヘレスのレーズンおよびブドウ農家組合規則」として具現化する。地域のワイン生産工程を管轄する規則が、初めて公的文書として示されたのである。
ヘレスから英国への直接的な供給が英西戦争(1585〜1604年)によって中断されると、英国の船員たちはハプスブルク朝スペインの植民地へと向かうスペイン船に満載されていたワインを略奪するようになった。ワインはそれほどまでに価値の高い物だとみなされていたのである。フランシス・ドレーク海軍提督が1587年にカディス湾の奇襲に成功し、「スペイン王の髭を焼いた」と自賛したときにも、部隊の兵士たちはヘレスのワインが入った樽3,000本以上を略奪して国に持ち帰った。
酒精強化ワインに変貌したいきさつ
17〜18世紀になっても、英国におけるシェリー人気は拡大し続ける。その結果、ゴードン、マッケンジー、ハーベイ、ウィリアムズ、ハンバート、サンデマンなどの有名ブランドがヘレスに拠点を設立し、ワインを合法的に安定供給して本国の需要を満たそうと動き出した。ナポレオン戦争(1803〜1815年)でフランス産のワインに高い関税が課せられるようになると、スペインのシェリーやポルトガルのポートはさらに魅力的な産品として取引されるようになった。ヘレスで活動する英国資本のワイン商たちは、英国政府と交渉してシェリーに課せられる物品税の減額に成功。おかげでシェリーはますます競争力を高めたのである。
1838年までの間に、シェリーを英国へ輸送する会社は40社以上を数えるようになっていた。さらに1825〜1840年の15年間で、シェリーの販売量は4倍以上の伸びを示している。ここで重要なのは、英国が輸入したシェリーの多くがスコットランド東岸のリース港から陸揚げされていたという事実だ。この時代のリース港はワイン貿易でたいへん賑わっており、1822年に港湾組合がウイスキー貯蔵の許可を取得するとウイスキー業界における重要な役割でも知られるようになった。
同じ時期に、醸造過程でブドウ原料のスピリッツを添加する「酒精強化」(アルコール度数アップ)がシェリー生産における重要な工程となった。つまり現在のシェリーと同様のスタイルが生まれたのはこの頃である。それ以前は、酒精強化が使用されるのはワインの保存目的に限られ、ほとんどが熟成を経ないまま遠隔地の市場に輸送されていた。グレミオ・デ・ラ・ビナテリア(ワイン醸造業者組合)による厳格な規制によって、熟成したワインよりも熟成なしの若いワインが優先販売されていたからである。これはワイン農家の利益を守るための規則だったが、ワイン商にとってはワインの味が変化した際の対策が取りにくく、一貫した品質のワインを販売するのが難しいという欠陥も生み出していた。それが1820年代になって組合が徐々に解体され、最終的には廃止されたことで、有名なクリアデラとソレラによる熟成システムが開発されてくるのである。
19世紀末には、害虫のフィロキセラがヨーロッパ中のワイン畑を襲った。だが根腐れに強いアメリカ産の台木に地元のブドウ品種を接ぎ木する技術を学んでいたおかげで、 シェリーの停滞期もさほど長くは続かずに済んだ。だが大きな問題は、ヘレスのスタイルを真似た偽物のシェリーが「英国産シェリー」や「オーストラリア産シェリー」などとラベルに謳われて市場に出回ったことだ。シェリーのユニークなアイデンティティを守るため、1933年にスペインで初めてのワイン法が制定。これによって原産地呼称が公的に保護されることになり、統制委員会が設立されて「ヘレス=セレス=シェリー」と「マンサニーリャ=サンルーカル・デ・バラメダ」の原産地呼称が法的に守られることになった。さらにウイスキー業界をはじめとする第三者機関が法的に「シェリー樽」と呼べる樽の定義も、新しい分類法によって厳格に定められたのである。
(つづく)