あなたの目の前にあるウイスキーは、どのような歴史の変遷を経て現在の味わいになったのだろうか。人類の文明を象徴する蒸溜技術にスポットを当て、その進化を辿る新シリーズがスタート。

文:クリス・ミドルトン

 

ウィリアム・フォークナーいわく、人類の文明は蒸溜技術とともに始まった。 蒸溜技術の普及や洗練を見れば、その文明の進歩の度合いを推し量ることができる。なぜなら蒸溜技術は、科学や文化の発展を映しているからだ。

スピリッツを蒸溜するには、まず穀物を育てる農法の知識が必要である。さらには化学や生物学に基いた工程があり、冶金や工学の技術も不可欠だ。スピリッツを運ぶための容器があり、流通経路も発達していなければならない。以上は技術上の成熟度を測る指標であるが、さらにはスピリッツを飲む人間の文化や感覚的な指標もあるだろう。

スピリッツを生産するには、製品の味を楽しむ消費者の嗜好が洗練されていなければならないし、製品を購入するための収入も必要だ。つまりスピリッツの需要があり、それに応えた生産がおこなわれている世界には、進んだ文明が存在するのである。

このシリーズでは、蒸溜の歴史における重要な進歩の過程をたどりながら、穀物原料のスピリッツづくりを叙事詩のように紐解いてみようと思う。穀物スピリッツの元祖といえるアクアヴィータの時代から、ウイスキーの時代へと変遷する物語だ。この2つの時代は、使用する設備、出来上がるスピリッツの構成、経済規模、消費のスタイルなどで大きな違いが見られる。

アクアヴィータ時代からウイスキー時代への移行は、蒸溜酒業界が単独で成し遂げた訳ではない。他の産業界や科学の進歩によって、原料や技術や製造工程が刷新できたのである。その間には、人間の感覚に寄与する重要な変革もおこなわれた。例えば18世紀末まで、穀物原料のスピリッツが熟成のために樽で貯蔵されることはなかった。その代わりニューメイクにはボタニカルや香味料が加えられ、医療用の気付け薬として活用されたり、口当たりを改善した嗜好用のドリンクとして売り出されたりしていた。

中世初期のアングロサクソン人によるイングランド王朝では「アクアヴィータ」(ラテン語で「命の水」の意)と呼ばれていたが、同じものがケルト語では「ウシュクベーハ」(アイルランド)、「ウィシュゲビャハ」や「ウィシュケバー」(スコットランド)などと呼ばれ、やがて「ウィシュケ」が1735年に英語化されて「ウイスキー」と呼ばれるようになる。
 

中東や西欧における蒸溜技術の発達

 
西欧で蒸溜に関する歴史文献を探すと、1150年頃のサレルノ(イタリア)で記された文書が最古とされる。しかし蒸溜技術の歴史は、6000年以上前のメソポタミア文明にまで遡ることができる。古代のバビロン、クレタ島、インダス谷の遺跡発掘現場からは、それぞれ素焼きの陶器でできた蒸溜装置が出土しており、香水やエキスを作るために原始的な蒸溜技術が存在したことを物語っている。

原始的な蒸溜器は、2つの耐熱容器の組み合わせで製作できる。6000年前のメソポタミア文明では、すでに蒸溜技術が使用されていた。

紀元後400年までに、パノポリスのゾシモスが当時のアレキサンドリアで発明済みだった技術をもとにしたアランビック型の蒸溜器(2つの容器をつないだタイプ)をスケッチで描いている。ゾシモスは蒸溜器の頭部(ヘッド)を古代ギリシャ語でアンビックスと名付け、それをアラビアの学者たちがアランビックと呼ぶようになった。

500年後のペルシャで、アレキサンドリアの記録を頼りにアランビック蒸溜器を製造したのがジャービル・ブン・ハイヤーンである。彼はアラビア世界で初となる化学研究所を設立し、アランビック蒸溜器を使用して薬用スピリッツや香水を生産した。ハイヤーンの著作はイスラム式の蒸溜技術を幅広く伝播させる助けとなり、ヨーロッパにおける蒸溜技術の確立にも寄与している。

最初につくられた飲用のスピリッツは、南欧と中東ではごく一般的なアルコール飲料だったワインを蒸溜したものである。やがて蒸溜装置が北欧のビール文化にも浸透してくると、ワインに代わって穀物を原料とするスピリッツがつくられるようになった。

余談だが、ウイスキーが穀物原料のマッシュを発酵して蒸溜した製品であるという古い定義を採用するなら、世界最古のウイスキーは中国で生まれていたという証拠がある。米や他の穀物を糖化して蒸溜するという営みは、紀元後220年の成都ですでにおこなわれていた。

1368年までに四川地方は中国における蒸溜の中心地になり、水井坊蒸溜所などの蒸溜所が大麦、米、モロコシ、小麦などを発酵させて銅製の蒸溜器で蒸溜していた。杉材やオーク材の容器で貯蔵されたかどうかは明らかになっていないが、その可能性は大いにあると見られている。 欧州でビールを初めて蒸溜したのはドイツ人だが、その千年前には穀物原料の蒸溜酒がつくられていたのだ。
 

キリスト教的な使命と薬学研究

 
ベネディクト会がサレルノ医学校やモンテカッシーノ修道院の病院を運営しはじめると、他のカトリックの修道会も病人や社会的弱者の保護に努めるようになった。シトー修道会やドミニコ修道会も病院や調剤薬局の創設を開始し、カトリック勢力の隆盛を土台にしながら西欧で蒸溜の知識を普及するのに一役買った。

イタリアのラツィオ州にあるモンテカッシーノ修道院。キリスト教的な使命を帯びた製薬技術が、蒸溜酒の製造にも結びついてゆく。

12世紀までに、蒸溜はキリスト教の聖なる使命を帯びた活動であり、同時に世俗的な薬学者や医師らによる仕事でもあるいう両面性を帯びるに至った。蒸溜の知識は急速に北上し、ポー平原、ベネチア、フランスなどを越えて、現在のドイツにあたる神聖ローマ帝国内にも広がってゆく。1280年までに、ニュルンベルクの民間企業がワインを蒸溜した「ベルネヴァイン」を製造。蒸溜所のないドイツ自由都市は、モデナ、ボローニャ、ベネチアの職人的な蒸溜業者からアクアヴィータを輸入していた。

モデナは1300年までにヨーロッパの一大蒸溜拠点となり、さまざまな病気や体調不良の予防薬としてアクアヴィータを販売していた。ジェノバの商人たちはこの新しい製品を資本化して、ロンドンやモスクワにアクアヴィータを輸出。これらの新しい蒸溜酒の生産地は学術的な関心も引き寄せ、1330年代には神聖ローマ帝国の皇帝であるバイエルン公ルートヴィヒ4世がヒエロニムス・ブルクハルトをモデナに派遣して蒸溜を学ばせたりした。ルートヴィヒ4世はブルクハルトに特別な許可を与え、ベルリンとシュプレーで蒸溜酒を製造させている。

ドイツ自由州では、製薬業者、王宮、修道院、居酒屋オーナーらが基礎的な蒸溜技術を活用していた。アクアヴィータは、徐々にパブや自宅で娯楽的に消費されるようになる。フランクフルトでは1360年までに公共の場での酔っぱらいが悪名を轟かせ、政府が蒸溜酒の売買を規制する法令を初めて発布するに至った。悪魔のスピリッツと呼ばれていたシュナップスの飲み過ぎで、市民が酩酊する機会を減らすためである。
(つづく)