日本でもニッカウヰスキーが使用しているコフィー式(カフェ式)蒸溜機が登場。原料の幅が広がって生産効率も増し、世界のウイスキー業界と消費者に変化をもたらした。

文:クリス・ミドルトン

 

アランビック型の蒸溜器以降に出現した蒸溜装置で、もっとも傑出した進化をもたらしたのはアイルランドのアイネアス・コフィーとスコットランドのロバート・スタインが考案したコラムスチル(連続蒸溜機)であろう。アイネアス・コフィーの設計は、複雑なロバート・スタインのスプレー方式を効率性で上回っていた。

アイネアス・コフィーによる2連コラム型連続式蒸溜機は、分析用蒸溜機と精溜用蒸溜機を分けた2つのコラムからなり、毎日24時間休日なしで生産を続けられる。大型ポットスチルを使用している蒸溜所に比べて、アイネアス・コフィーの蒸溜機は1日あたり10倍以上の生産力をもたらすに至った(1840年当時のデータ)。

新型の連続式蒸溜機は、燃料費、保全費、清掃費などを大幅に削減し、発芽前の穀物を主体にできるため原料費や製麦の手間も大きく省けるようになった。アルコール度数も94%以上になることから、ガロンあたりのコストは大麦モルトを原料にしたときより70%も下がった。

このようにしてつくられたクリーンなグレーンスピリッツは、やがてスコッチウイスキー、アイリッシュウイスキー、アメリカンウイスキー、カナディアンウイスキーの業界に変化をもたらし、消費者も飲みやすくて軽やかな味わいのブレンデッドウイスキーを好むようになった。1850年までに、アイリッシュウイスキーとスコッチウイスキーの50%以上がグレーンを原料としたニュートラルなスピリッツで占められた。南北戦争後のアメリカでは精溜装置の併用が進んで、北米市場をブレンデッドバーボンウイスキーとライウイスキーが席巻するようになった。
 

蒸溜機の周辺でも技術革新が進行

 
生産量が大きく増えるに従って、大規模な蒸溜所では粉砕機、発酵槽、冷却器などの装置にも大型化が求められていった。クリスチャン・ワイゼルのリービッヒ冷却器は、ジグザグに曲がりくねった形状で冷却効率を高め、スコットランドでも短時間の蒸溜を促進した。

基本的なモルトウイスキーの生産設備は、19世紀からさほど変わっていない。あくまでトータルな進化によって時代ごとの消費者ニーズに応えてきた(写真はグレンモーレンジィ蒸溜所)。

1825年、ロンドンのウィリアム・グリンブルが多管式(シェル&チューブ式)の冷却器を発明し、大半の蒸溜所で伝統的な蛇管式(ワームタブ式)が徐々に姿を消していった。生産工程でのさまざまな計測精度を上げるため、計測器の世代交代も進んだ。バーソロミュー・サイクスが1816年に新型の比重計を発明し、ジョン・クラークの旧型比重計に取って代わる。その1年前には、ロバート・ベイツの検糖計も登場した。アメリカでは、1791年にジョン・ディカスの比重計が政府によって公式に認可されていた。

穀物の育種家たちも、新世代の優れた品種の選別に余念がなかった。ジョン・シュヴァリエがサフォークで近代初のモルト用大麦品種を交配させ、1830年代から既存のビール醸造を進化させた。アメリカでは、ジョン・ロレインが1810年にバージニア産のゴードシードデント種と北方のフリント種をペンシルベニアで掛け合わせて新品種を生み出した。この品種から、後にジェームズ・リードが交配したイエローデントコーンが生まれている。

機械式の収穫機と脱穀機が開発され、耕作機械の設計も改良されたことから、面積あたりの収穫量や収穫量あたりのアルコール収率も向上した。1840年までに、ウイスキー生産にまつわる全分野で技術革新が進んでいる。まさに穀物畑から消費の現場まで、新しい生産体制によってウイスキー隆盛の条件が揃ったのである。
 

19世紀後半の黄金時代へ

 
1840年以降も、スピリッツ業界は科学技術の進化から恩恵を受け続けた。1850年代に進化した冷蔵技術のおかげで、蒸溜所は発酵や蒸溜の冷却を制御できるようになり、衛生問題も乗り越えて通年生産が可能になった。かつては木、木炭、ピート、石炭に頼っていた燃料源も、やがて石油、ガス、バイオガスでまかなえるように変化した。

鉄道網が敷かれたことで、原材料も国内の隅々まで輸送できるようになり、出来上がった製品を帰りの便で都市圏に送り返せるようになった。蒸溜所が穀物畑のすぐ隣に建てられる必要もなくなり、ピオリア、トロント、メルボルンなどの都市が新しいスピリッツの産地として成長した。1840年代に初めてオールドケンタッキーバーボンとペンシルベニアライウイスキーをボトリングしたブランドがビニンガーズである。

1860年代後半には、各地の樽工房が樽の製造を機械化することに成功した。1865年、鉄と陶器のローラーによって穀物を挽く機械がハンガリーで発明され、すぐに伝統的な石臼は過去のものになった。1890年代には、フランスのジュール・サラダンがさらに製麦革命をもたらしている。マイケル・ガラードが1880年代に開発したドラム型に、空気圧をかけたモルティングボックスのアイデアを加えたのだ。

ドイツのフリードリヒ・ヴェーラーが1828年に発見した有機化学の合成方法を利用して、ルイ・パストゥールが酵母や微生物の研究から低温殺菌法を開発していた。ウイスキーにとって重要なのは、それまでせいぜい数ヶ月だった熟成期間が年単位に延びて品質や味わいが向上したことだ。邪魔な成分やフーゼル油が樽内でゆっくりと分解され、まろやかで口当たりのよい複雑な風味のウイスキーが登場した。

1860年代の税改正によって、メーカーは税金の先払いなしでウイスキーを長期熟成できるようになった。1861年にシングルボトル法が制定されると、スコッチウイスキー業界もウイスキーをガラス瓶に入れて販売できるように。1840年代にはラベルや広告などのブランド戦略が活発になり、新しいウイスキー時代の到来を手招きしたのである。
(つづく)