風光明媚なアバディーンシャーで、独自の路線を切り開くグレンギリー蒸溜所。懐古主義とも思える大胆な方針転換の意図を探った2回シリーズ。

文:ガヴィン・スミス

 

現在のウイスキー業界で、特にホットな話題といえばサステナビリティだ。だが同じ視点で1970年代を振り返ると、意外なスコットランドのウイスキー蒸溜所にスポットが当たる。ほとんど半世紀前から、時代を先取りするサステナブルなウイスキーづくりを実践してきた蒸溜所があるのだ。

それが、アバディーンシャーのオールドメルドラムにあるグレンギリー蒸溜所だ。ちょうど1970年代は、現在のように燃料費が高騰を続けた時期でもある。このコストを抑えて収支のバランスをとるため、グレンギリーは先進的な廃熱回収システムを採用した。これは製麦で発生する熱エネルギーをそのままウォッシュの予熱に援用することで、蒸溜時のエネルギー消費を抑える仕組みだった。

スコットランドの北東部、アバディーンシャーのオールドメルドラムは豊かな自然に恵まれている。メイン写真は、前蒸溜所長のケニー・グラント。貴重な水源を掘り当てたアレック・グラントの息子だ。

そして1977年には、オーナーのモリソン・ボウモア・ディスティラーズがさらに野心的な一歩を踏み出す。それまで利用されていなかった廃熱で、1エーカー(約4000平米)分の温室をあたため、トマト、キュウリ、パプリカ、ナス、花などを栽培し始めたのだ。この栽培プロジェクトは最終的に休止されたが、他にもグレンギリーは1982年からスコットランドの蒸溜所として初めて北海油田の天然ガスを使用し始めるなど、エネルギー利用にはいつも先見の明があった。

それから約40年が経った2021年の現在、グレンギリーは再び流行の先端を走っている。だが今回のアプローチは、全体として先進的な設備というよりも伝統回帰の色合いが強い。現在のオーナーであるビームサントリーは、600万英ポンド(約9億円)の巨大な設備投資をおこなっているが、その内容にはモルティングフロアの再建や、直火式ウォッシュスチルの導入という旧式な技術の再興も含まれる。

この改修プロジェクトが発表されたとき、ビームサントリーのフランソワ・バジーニ(スコッチウイスキー、アイリッシュウイスキー、ジン部門の最高責任者)は次のように宣言した。

「グレンギリー蒸溜所を再活性化し、ブランドの豊かな歴史を掘り起こすことで、すでに定評の高いグレンギリーの品質や複雑な味わいを足がかりに大きな成長が期待できます。このアプローチは、過去に目を向けることでインスピレーションを得るためのもの。いずれは新しいグレンギリーの未来を開くものとなるでしょう」
 

グレンギリー蒸溜所の歴史

 
グレンギリー蒸溜所の歴史の第1章は、18世紀後半に始まった。蒸溜所が建設された場所は、アバディーンから約27km離れたギリー(Garioch)の町だ。当時としてはありがちなことだが、蒸溜所で実際にスピリッツの蒸溜が開始された日時については確固たる記録がない。だがグレンギリーは、ジョン・マンソンとアレグザンダー・マンソンが蒸溜所を創設した年が1797年であるとしている。

グレンギリーの歴史において、特に重要な変化は1884年に訪れる。リースにあったブレンディング会社のJG・トムソン社が蒸溜所を買収し、その2年後には同じリースのブレンディング会社であるウィリアム・サンダーソン社が株式の半分を取得した。1882年にはウィリアム・サンダーソン社がブレンデッドウイスキー「ヴァット69」を発売して大人気を博す。グレンギリーはそのブレンドの中核をなすモルト原酒を供給した。

最近の改修で、新しいポットスチルを導入したグレンギリー蒸溜所。その加熱方法に、あえて旧式の直火式を復活させたことがさまざまな議論を呼んでいる。

1922年にはウィリアム・サンダーソン社がグレンギリーの所有権を100%取得し、1935年にブース・ディスティラリーズ社と合併。その2年後には、ブース・ディスティラリーズ社を買収したディスティラーズ・カンパニー・リミテッド(DCL)社がグレンギリーの親会社になった。

グレンギリーは、もともとピーテッドモルトを使用してスピリッツをつくっていた。だが DCL社がピートの効いた原酒を増量しなければならなくなったとき、グレンギリー蒸溜所ではなくブローラ蒸溜所でピーテッドモルト原酒の生産を拡大することにした。DCL社の報告書によると、ブローラが選ばれたのは、アバディーンシャーにあるグレンギリー蒸溜所が「慢性的な水不足と生産拡大の限界」を指摘されていたからである。

グレンギリー蒸溜所は、1968年7月に生産を停止。その2年後に、ボウモア蒸溜所のオーナーでもあったスタンレー・P・モリソン社がわずか10万英ポンド(約1500万円)で設備を買い取った。

スタンレー・モリソンは、ある噂を耳にしていた。それはグレンギリーの水不足が、DCL社が断定したほど深刻な問題ではないという情報だ。そこで生産を開始するにあたって専門家による水脈調査を実施し、「掘り師」の異名をとるアレック・グラントに水源の確保を依頼。すると間もなく、蒸溜所の隣にあるカウテンズ農場の敷地内で泉が見つかった。

この貴重な新しい水源は「カウテンズ農場の知られざる泉」と呼ばれた。誰もそこに泉があることを知らなかったし、聞いたこともなかったからである。この発見によって、グレンギリー蒸溜所の生産量は10倍になった。3基目のスチルが導入された1972年には、シングルモルト「グレンギリー」のオフィシャルボトルが初めて発売されている。その翌年の1973年には、4基目のスチルも加わった。

だいぶ前から製麦業者への外注が主流になったスコッチウイスキー業界にあって、グレンギリー蒸溜所ではわりと最近まで昔ながらのフロアモルティングを蒸溜所内で続けていた。グレンギリーがフロアモルティングをやめたのは、1994〜1995年頃のことである。1980年代半ばには、自前のモルティングフロアで毎週47.5トンもの大麦を製麦し、必要量に足りない分を外部の精麦業者から調達していた。蒸留所内で精麦されるのはピーテッドモルトで、それに外部から購入したノンピーテッドモルトを混ぜるという方式である。

自前の製麦が後退していくにつれて、ピートのレベルは徐々に減退していった。これによって、シングルモルトの酒質は大きく変化することになる。現在の甘く、香り高く、フルーティーな酒質は、このような経緯によって生み出されてきたのである。
(つづく)