ウイスキーマガジンが主宰する今年度の「ホール・オブ・フェイム」で、史上79人目となる殿堂入りを果たした田中城太氏(キリンビール株式会社マスターブレンダー)。横浜のブレンダー室で、その半生を振り返る3回特集。

文:WMJ
写真:チュ・チュンヨン

 

ウイスキーマガジンが主宰する「ホール・オブ・フェイム」は、長年にわたってウイスキー業界に貢献を果たした個人に与えられる栄誉だ。2004年のマイケル・ジャクソン氏(ウイスキー評論家)に始まり、19年目となる今年までに79人の殿堂入りが発表されている。

そのもっとも新しい79人目の表彰者が、キリンビール株式会社マスターブレンダーの田中城太氏だ。ジャパニーズウイスキー関係者の殿堂入りは、輿水精一氏(2015年)、稲富孝一氏(2016年)、宮本博義氏(2019年)に次いで4人目となる。

業界でもユニークな遍歴を振り返りながら、今後のジャパニーズウイスキーの行方を占いたい。キリンビール横浜工場内にあるブレンダー室で、授賞式から帰国したばかりのマスターブレンダーを訪ねた。
 

大志を抱き、古都から北の大地へ

 

京都の伏見で生まれた田中城太氏は、自然に親しみながらのびのびと育った。勉強が嫌いで宿題をサボり、親を心配させるような子供。週末はよく父に連れられて、近隣の山や琵琶湖のほとりでキャンプをしていたという。

生家の向かいにあった酒蔵が地蔵盆で開放されると、子供たちにとって格好の遊び場になった。酒どころ伏見ならではのエピソードだ。

今年3月のワールド・ウイスキー・アワード結果発表に合わせ、ホール・オブ・フェイムの表彰式も開催された。田中城太氏は通算79人目の功労者として登壇した。(写真提供:Whisky Magazine)

「日本酒を仕込むいい香りをよく憶えています。その後も自由研究で麹室に入れてもらったりしていました。あの頃から、発酵への関心は膨らんでいったんでしょうね」

本人いわく普通の少年だったが、地元の公立高校に進学すると変化が起きる。教師たちの影響もあって、人生の目的を模索するようになった。

「ただ闇雲に受験勉強するのではなく、明確な目的意識を持って大学を選びたい。これからの人類は、食糧問題の解決が課題になると父に言われ、農学部を意識しはじめました」

特に憧れを抱いたのは北海道大学だ。ウィリアム・スミス・クラーク博士の「ボーイズ・ビー・アンビシャス」は、当時から座右の銘。ちょうどある北大の先生が先進的な代替エネルギーについて研究している事例を知り、自分の目でキャンパスを見てみたいと思い立った。

そして高2の夏休みに、バックパックひとつで舞鶴港へ。小樽まで片道32時間の船旅を経て、札幌市の北大を訪ねた。蒸し暑い京都とは別世界の涼しさに驚き、緑に覆われた広大なキャンパスに魅了される。

「大学事務所で訪問の理由を話したら、その代替エネルギーの先生に会わせてくれました。研究室で『頑張りなさい』と先生に激励され、もう絶対にこの大学で学ぼうと心を決めたんです」

猛勉強の末に、晴れて北大に入学。研究対象には応用微生物を選んだ。北大農学部応用菌学研究室は、日本で初めて納豆菌を純粋培養したことでも知られている。そもそも実家の向かいには酒蔵があり、伏見の食卓には酒粕料理が欠かせない。発酵は以前から身近な存在として関心があった。

在学中はバンカラで有名な男子学生寮に住み、北海道の大自然も満喫したという。

「オートバイに寝袋を乗せて北海道を一周したり、牧場で牛追いのアルバイトをしたり。厳冬の湿原に、タンチョウヅルを見に行ったこともありますよ」
 

憧れのアメリカでワイン修行

 
クラーク博士の祖国アメリカへの憧れが強まったのも大学時代だ。グレイハウンドバスで全米を旅してきた友人に触発され、大学院時代に単身アメリカへ。西海岸から東部ニューヨークまで各地を旅行しながら、農業国としての圧倒的なスケールに魅せられた。

「ウィスコンシン州では、ネイティブアメリカンの女性に乗馬を習いました。馬に乗って森を歩きながら語り合い、その深遠な精神や自然観にも触れたり。そんな新しい出会いと体験に感化され、帰国後もまたアメリカへ行きたいという思いが募りました」

大学院まで進学したが、学術研究よりものづくりに対する関心の方が高まっていった。教授の推薦に頼るのは嫌だったので、就職活動では自分で製薬や食品などのメーカーを探して訪問した。

日本人で4人目の殿堂入りだが、現役マスターブレンダーが表彰されるのは日本で初めてのこと。ジャパニーズウイスキーの改革者として、期待はさらに高まっている。

「将来は海外に行きたいという気持ちが強く、そんな条件に適ったのがキリンビールだったんです。ちょうどキリンが海外展開を重視しはじめた頃で、日本企業のなかでも国際的なイメージがありました。教授には知らせず横浜工場を訪問した後日、なぜか教授経由で内々定を伝えられました」

1988年に大学院を修了してキリンビールに入社。入社後の半年間は研修でビール醸造技術について学び、10月に本社の生産管理部に配属された。この部署で、新人の自分がいったい何をできるのだろう。不思議に思っていると、配属先の担当役員がこう言った。

「半年後、カリフォルニアのワイナリーに行ってもらうから」

ワインといっても、大学時代に飲んだことがあるのは一升瓶の山葡萄酒だけ。カベルネソーヴィニヨンなどの品種名も呪文のように聞こえた。それでも英会話学校に通いながら、渡米の日を待った。

入社からちょうど1年後の1989年4月、田中城太氏はサンフランシスコ空港に降り立つ。キリンが買収したナパバレーの小規模ワイナリー「レイモンド・ヴィンヤード&セラー」から、オーナー兄弟が迎えにきてくれた。その後1992年までワイナリーで働き、カリフォルニア大学デービス校大学院でワイン醸造学を専攻。キリンもワイン事業に参入してまだ日が浅く、専門知識を必要としていたのである。

「留学前に会社からは博士過程を勧められたが、自信がなくて修士過程にしました。でもワイン醸造学は予想をはるかに超えて面白い分野だった。英語が苦手で電話を受けるのも嫌だった自分が、ワイン醸造学会で発表するほどになるんですから」

修士号を取得すると、会社には内緒で博士課程に進んだ。自分でワインをつくりたいとさえ思い始めていた矢先に、本社から帰国の辞令が届く。揺れ動く田中氏の心境を察し、わざわざ部長がカリフォルニアまで説得に来た。そして1995年、博士課程修了前に研究を切り上げて帰国した。

「ワインづくりには惚れ込んでいましたが、ここまで学びの機会を与えてくれた会社を辞めてまで我は通せないし、次の新たな可能性を信じて帰国しました。結果的に、ワインづくりを通して身に付いた知見や香味表現のスキル、食事とのペアリングに関しての体験などは、今のウイスキーの仕事にとても役立っています。最近ウイスキー用のオリジナルグラスを開発したのも、ワインの経験があってこそ。カリフォルニアでの6年間はとても大きかったですね」
(つづく)